真っ当な人は交換価値に拠らず、価値に拠る。この真の意味

 その昔カール・マルクスは言った。価値と交換価値。

 交換価値は物の商品として価値のことだが、価値については議論が多々あった。投下労働説に基づく労働価値、または使用価値。またはそのもの自体の価値。

 そのもの自体の価値は形而上学的として散々批判されたが、俺はマルクスは案外この「形而上学的」価値のことを一義的に言おうとしたんじゃないかと思っている。

 そのもの自体の価値。それこそマルクスがリアルなヒューマニストだったことを示していると俺は思う。

 そのもの自体の価値。これをそれぞれの人の価値と言い換えてみれば、より分かり易い話となる。人は交換価値によっては決めつけられない。人には誰にも、その人自体の価値と重量がある。

 人はしかし商品的労働の世界(普通の娑婆)では、交換価値によって量られる。

 商品的労働の世界では、人はそれ故にあからさまな差別を受ける。受け取る賃金という尺度によって。

 受け取る賃金イコールその人の商品価値=交換価値ということ。それが差別の基準・尺度の総てだ。

 実は、これ自体は決して悪いことではない。というより善悪の彼岸なのだ。開かれた市場社会では。

 この種の価値に別の価値を対置して横槍を入れることの方が、むしろ愚劣な行為となる。

 例えば役者や歌手の人気稼業。年間数億円を人気で稼ぐ役者に対して、食うやくわずの役者が「俺も苦労している。俺には俺の価値がある」などと唱えて平等の分け前を主張したとしたら、この男(女)は真っ当な世界では馬鹿扱いされるだけだろう。馬鹿扱いされるだけでなく、交換価値では表せない彼自身の役者としての価値、人としての価値をも貶めることになる。比較や尺度の俎上に、比較や尺度を絶する自身の価値を重ね合わせることによって。

 だから人は、この種の論理に隠された感情を軽蔑し否定する。僻み、嫉妬、怨望として。

 開かれた市場社会では、交換価値と価値は並立的に存在して交わることは無い。味噌糞一緒的に交わることが無いからこそ、保たれるのだ。それぞれの者達の人としての価値と重量が。

 ちなみにこれが、人は並立の共和社会の基本的価値概念なのだ。交換価値ではない価値、その人自体の価値。

 これは実は民主主義が建前のこの国この社会でも、水のごとく存在することが既に認められている。建前上は。そう、実体や実感ではない建前上は。

 だから人はたいてい本音の部分では認めていない。その人自体の価値を。その本当の意味を。


 その人自体の価値。それは実は建前でも観念でも絵空事でもない。交換価値を含めたあらゆる価値の、創造の源なのだ。

 自分の生き方や社会のあり方を内省したことのある者ならば大抵、上記の一節にピンと来るだろうと俺は思っている。

 価値。その人自体の価値。それは何ものにも冒されることの無い自由な感性の世界。こう言い換えてもいい。

 または何億年の生命の歴史が形成した遺伝子に由来する、本能の嗅覚を含めた直感、直観の世界と言ってもいい。

 その人自体の価値。それはこれらが担保された、その人自身の価値の世界なのだ。良心の自由、思想の自由なるものの権利も根拠もこれを源としている。創造主体としての人の根底に拡がる大海原、自由な感性や直観の世界。

 開かれた市場社会もまた、これに根ざした人の自由の社会を言う。

 逆に言えば、その人自体の価値の世界が担保されない社会では、開かれた市場社会も、それに根を置く交換価値=商品世界も成り立たないということになる。

 そこに生まれるものは、支配者・統治者・既得権者にとっての自由のみが実体として保障される虚偽の自由、虚構と建前の自由、真の交換価値に根ざさないお手盛り・似非の商品世界なのだ。

 価値、その人自体の価値、それに根を置く良心の自由、思想の自由。これが民衆においてさえ建前としてしか存在しない社会にはびこるのは、自由の足をひっぱる奇麗事・偽善や虚構のモラル、群れを序列化して操る奴隷的組織だけだ。




 我々に必要なのは味噌糞一緒の愚衆を操り、統治の組み替えだけをめざすエセヒーローではない。自由の魂を抱き、民衆と共に汗を流す真のヒーローだ。それは突き詰めれば、我々一人ひとりだ。

 共鳴共感、人は並立・人はそれぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。