自分という民衆の自画像 ―夕暮れ時のひとり言―

 二歳半の孫娘を見て思うのは、人の心の原型は変わらないということ。

 湧き上がる感情も。

 二歳にしてそれは形成されている。

 この頃いつも感じる。自分を深くたどるということは、これに行き着くことではないかと。だれも変わらぬ心の原型に。

 それは、みんな同んなじということではない。

 生れ落ちたその時から、人は自分の道を行くしかない。二歳半の子供にしても。

 だが原型は変わらない。

 個別のものでしかない自分の人生の彼方に、これを見出すことが出来れば、どんな人物も一定程度描けるだろうと俺は思っている。共鳴の感性で。

 これは長年の雑多な仕事の中で、ようやくつかんだ実感だ。自分を振り返りつつ。

 何年か前、雪国の死んだ義母の家を取り壊す時、棚の奥で短歌を見つけた。

 たどたどしい鉛筆書きのそれを見て、嫁さんは言った。「母ちゃんももっと勉強する場があったら、いいもの書けたのに…」。

 表現は訓練であり、慣れであり…。どんな豊かな感性も経験も、一定程度これを経ないと表すのは難しい。

 だが、その人自身が蓄えた人間性や感性、智恵のたぐいはこのことの有無と無縁だ。なまじの修練など無い方が、心に良好に保存されるようにも思う。

 義母はそんな人だった。今も俺の中に、折々の表情が浮かぶ。多くを語ることは無かったが。

 毎度の俺の後悔は、娘の幸せを願う、苦労の人生を歩いた義母の思いに応えらえなかったことだ。

 人の心の原型は変わらない。子を産み育て死んで行く人生の原型は変わらない。個別の人生は人の数だけあるとしても。

 これは決して十把一絡げでは無い。自分をたどることで行き着く、人の原型は。