変革の源

 人に分かってもらおうという性根ほど、くだらないものはない。

 十把一絡げの陳列棚に、自分を追いやるだけ。

 どうせお前らにゃ分からないという性根もまた、くだらない。

 十把一からげの陳列品。そんな自分に目を背けるだけ。

 日々自分を表す。汗を流してもの作りして。

 買う買わないは相手次第、客次第。

 人や社会との真っ当な関係は、この間合いの中にしかない。

 これが面白いのだ。自分と他人。主観と客観。

 客観は神ではない。主観もまた神では無い。だが主体は否応無く自分。

 このことを実感できればしめたものだ。客観、主観の突き合わせの中で。

 けちな主観の解体は、実体把握の一里塚。自分という実体の。そして人の実体の。客観はそのための触媒だ。それがどんなものでも。

 その時初めて気付くだろう。商品価値の根底にも通じる、汲めど尽きない創造の泉は、自分という主体の内にあることに。やるやらぬ、出来る出来ぬは、究極的にわが体内の課題に。

 これに気が付くこと。気付いた自分を生きること。これが主体性というものだ。



(付記)

 これはどんな時代、どんな社会状況でも変わらない、人の在り方の基本原理だと俺は思っている。

 この基本原理の日々の実践が、社会の虚構や諸矛盾の解体、真っ当な制度やシステム創出の母体でもあると思っている。思想や理論においても、情熱情念においても。

 主体性論がこの部分を見落とすと、それは毎度、良民養成・体制護持の道徳・修身・説教に陥る。