金太郎飴のピラミッドの解体と共和制

 長年俺は地べたを這う仕事をしてきているが、毎度思うことがある。

 人間は、下層社会の者ほど差別意識は強い。

 下層民(俺もその一人だ)は、自分よりもさらに下の者を見つけて差別する。もっと下を作りたくていがみ合う。よく言われるこれは真実だ。

 上層社会の者達が差別意識が薄いかといえば、そうではない。自分を護ってくれる社会の仕組みの中にいるため、個人としてそれを表に出す機会は少ない。これを見落とすと、とんだ誤解をする。

 上中流社会の者達が往々身に付けるヒューマン、民主の知識や教養はほとんどの場合、差別の本音を隠す隠れ蓑やオブラートに過ぎない。このことも骨身に沁みて感じてきた。

 その種の知識や教養は無駄ではない。だがそれは、真に生ようとする者にとってしか意味をなさない。真に生きようとする者は、その種の知識や教養が無くても十分にヒューマンだ。

 真に生きるとはたとえば、流す汗を厭わないこと。

 以前ペシャワル会という、アフガン・パキスタンの民衆援助の主宰者は次のように言っていた。

 「民衆の現実を知って失望する者がいるが、それを踏み越えないことにはやっていけない」。

 差別や因習のるつぼの中で何をするのか。それより何より、自分はどこに立つのか。これが言いたいのだろう。掘っても掘っても現れる、金太郎飴のごときピラミッド社会の中で。人の自分の体内に巣食うものを含めた―。

 人は結局は自分自身の上に立つしかない。

 自分とは、自分の原像とは何か。人の心は元々開いているのか、閉じているのか。

 このことを真に感じれば、共和制の社会は十分に成り立つと俺は思っている。真理や道徳の虚像など戴かなくても。



 共鳴共感、人は並立、ひとはそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。



(付記)

 そこまで俺はまだ行ってない。だから書かざるを得ないということはあった。自分を振り返って。