共和制社会の仕組み、その一事例

 人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも創造主。

 お手盛りで自分を飾ることを止めた者なら、真っ当に社会と関わり人と関わった者なら誰でも感じるであろうこの実感を土台に、国の機構や社会を組み立てるならば、発想・理念として嫌でも共和制に行き着く。そう俺は思っている。

 何かに下駄を預ける仕組み(それを強いる虚構)を取り払うということ。人ならだれでも抱き得る大局の意識と直観を、大所高所の大嘘に収れんし誤魔化さないということ。

 共和の社会はどんな仕組みか?

 例えば教育。各分野はすべて複線化する。

 東大的なもの(国家エリート養成機関)は行政担当者養成所になる。諸々の教育組織の一分野ということ。

 見上げるものでもない。軽蔑するものでもない。どこにもある教育機関の一つという、本来あるべき位置(今だってこれが実体だ)に置くということ。

 やりたい奴がやる。行きたい奴が行く。競争はあるだろうが、駄目なら他で自分を生かす。けちな挫折を生む精神構造、社会構造を取り払えば、人に再挑戦のチャンスなどいくらでも生まれる。

社会組織、生産組織もそれは一緒。科挙学歴の思い込みのエリート意識、優秀幻想とそれに乗っかった差別構造を解体すれば、人の入れ替えは容易になる。本当に力のある者、人間的にふさわしい者がその場所を得て、駄目なら交代する風通しのいい仕組みに。

 「民衆は羊の群れ。」

 人間の実体がそうなのではない。そう貶めることによって、その仕様に人を仕上げる(押し込める)ことによって成り立ってきた、この国の支配機構。これを根幹から改めないと、いつまで経っても同んなじことを繰り返す。

 統治者達は民衆を脅す。「強権が無ければ、お前達はばらばらだ。」

 そんなことは無い。人間は意識的、無意識的に自治をめざす動物だ。一人ひとりの、一つひとつの暮らしとはそういうものだ。

 これを踏まえた真っ当な関係、自立したお互い様の関係。それに基づく契約関係。今だって、これをベースに社会は存続している。どこにおいても。

 恩着せがましい虚構を取り払えば、嫌でもここに行き着く。



 共鳴共感、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。