大局と大所高所 ―似て非なるもの―

 大局からものを見て事を為す。これは大事。誰においても。

 大局は、いわゆる大所高所では無い。この認識は重要だ。

 なぜなら後者は、組織や階級、階層の頂点からのものの見方を言うに過ぎないからだ。

 これと大局が何の反省も無く混同されるところに、この国この社会の卑屈で腐り果てた精神がある。

 大局とは全体のこと。社会を人を、総体としてとらえる全体的視野と感性のこと。

 これを持つか否か。それは社会の上層に位置するか、下層に位置するかとは無縁だ。

 宦官・組織社会は、下層の者達の大局=総合的視野を否定する。損得打算、利権がベースの自分たちの視野と構図を護るために。それを「下々」に押し付けるために。

 宦官とは、この種の構図を自身の脳に刷り込んだ者達を言う。自前の視野を意識無意識に捨てて。小局のために、目先の損得打算のために。

 小局?目先? 彼らは言うだろう。「これが大局だ」。腐り果てた組織社会、階級階層社会が続く限り。

 人が人として生きようとすれば、凝固し腐り果てたこの種の「大局」は嫌でもぶち壊すしかなくなる。

 目を覚ませ。わが感性を、直観を呼び覚ませ。出来合いの大局の中で、大所高所の泥船の中で眠りこける者達よ。

 原発は、放射能はいい目覚まし時計だ。



 共鳴共感、人は並立・人はそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。


(付記)
 西郷南洲よ、ゲバラよ。お前らは正しかった。自前の感性に根を置くこの種の視野を、終生腐らせなかった点で。