期待の心理と人の実体

 「脱原発デモを報道しないのはおかしい」。この種の言説を、各所で見る。

 「あれはあの程度。」 この認識は大事だが、声高に非難したり腹を立てるのはナンセンスだ。

期待の裏返しに過ぎないからだ。

 その昔も自分が参加したデモを、投石の様子を家に帰ってテレビで見て喜ぶ者がいた。

 この種の者達は全部が全部、サラリーマンになった。過去を評論し、今を正当化するだけの。

 精神の実体がその程度なのだ。のど元過ぎれば体制に付く。


 その昔、大手のテレビ取材にペコペコし、長期に渡り親身になった個人取材者は足蹴にした、医療裁判の闘士(被害者)がいた。

 個人取材者は思った。「政治的効果という点では仕方無い。大手(組織的なもの)に気持ちがなびくのは。」

 「だが仕事の内実を無視し、それを生み出す何ものかも足蹴にする。こんな男と二度と関わらない。」 

 立場が変われば、同んなじことをするからだ。



(付記)

 後半の話は、別の場所でも以前書いた。「No-one was saved」の表題で。


 共鳴共感、義理人情、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。