ルソー、マルクス、西郷、ゲバラ、三島 ―革命における主体の意味―

 ルソー、マルクス西郷南洲ゲバラ、括弧付きで三島由紀夫

 彼らは革命と人間主体、この両者の関係をよく知っていた者達だ。

 主体が主体としての生き方を持たない限り、真の革命はあり得ないことを。

 主体としての人間存在。それは生物としての人に内在するの創造の力、子を産み子孫を残す力、それらに伴う自活と自治の力―、これを十全に発揮する人生を指す。

 そしてこれらを総体的に溶かし込んだものが、人の暮らしだ。

 ルソーは主体としての人の生き方を具体的に描き出すため、権力や制度に抑圧される以前の人間存在=自然人を提起した。

マルクスは生み出す力=創造力を発揮する具体的、実践的存在として労働者を唱えた。

 労働疎外。一見観念的な彼のこの言葉は、抑圧社会の中で真っ当に働く者、十全に力を発揮しようとする者には、実にリアルな実感の言葉として胸に響く。

 日本では西郷南洲。空疎な国家官僚へのこけ脅しとしてその昔右翼が祀り上げた以外、彼をまともに扱う学者や思想者がほとんどいないのは、この国の思想なるものがいかに実の無い、容器だけをこね回す上辺の遊戯、観念の遊戯に過ぎないかを示している。

 西郷は知っていた。子供の頃の庶民と変わらぬ暮らしの実感の中で。当時の封建的説教思想が、実質を欠く空っぽな言説に過ぎないことを。

 彼は実ある思想(暮らしを真に護るもの)の理想形として天皇を心に描いたが、虚偽ならそれすら乗り越える強さ=人間存在に根ざした真の革命性を秘めた男だった。

 「政府に尋問の筋これあり」「天皇にお尋ねする」。西郷が東京をめざして決起した理由をこう述べたとされるのは、彼の思想の根底が損得打算と容易につるむ観念のたぐいでは無い、人間存在に根ざすものだったことを示している。

 そして現代史のゲバラ中南米の人々が彼の思想と生き方の透明性を今も讃えるのは、単に心の純粋さをそこに見出だすのでは無い。民衆への、日々の暮らしへの共鳴。これを外すことの無かった彼の精神と生き方への共感に根ざしてのものなのだ。

 真の革命家の魂。それは人々のリアルな人生、リアルな汗、民衆社会(コミューン)への共鳴に根を置いている。

 それに比べれば、三島由紀夫は愚かだった。中央集権的東京社会の観念の檻から遂に出られなかった彼は、真の人間存在に気付くだけの感性(革命家の魂の要素)を持ち合わせていたにもかかわらず、坊ちゃん気質でそれに怯え、自分を解体し変えることなく、虚構の純化という三文芝居の果てに死んで行った。

 東京がいまだ、嗅覚だけに長けた流行作家を首長として戴くのは、総体として人への共鳴のかけらも無い白アリ白豚の搾取社会に成り下がっているからだと俺は思っている。出くわした諸々の経験から。強権にすがって人を見下し、人を怖れる下司・宦官達の社会。

 中央集権は、虚構の序列は、政治的にも社会的にも解体するしか無い。並立・共鳴のコミューン(当たり前の民衆社会)を基盤とする社会と国を作るために。

 主体と協働の共生社会。これに根を置く場において、序列や秩序は存在したとしても、二次的便宜的なものに過ぎない。



 共鳴共感、人はそれぞれ、人は並立、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。