教養人、東京人とお友達になる気は全く無い。今も昔もこれからも
6年前に最初のものを書き始めてから一貫しているもの。
教養人とお友達になる気は全く無い。
正しさという観念に寄り添うだけの者達。見ているだけの者達。
この種の者達を組織的人格者と俺は呼ぶ。
自分の中のマグマ(魂)と結んでいないからだ。
だから解釈だけで終わる。安全地帯に身を置いて。
安全地帯。それは近代の化けの皮を被った封建的組織社会。江戸由来、それを引き継ぐ明治由来の。
もし仮に人の心に灼熱のマグマが凝固しないまま在るとすれば、この種の社会とは必ず、絶対的に矛盾を生じる。
その矛盾と衝突の中に、その人自身のリアルな人生を始める手がかりが転がっている。
こいつを小狡く避ける者達。
だから一生が送れる。正しさという観念に寄り添うだけで。
この種の者達を現代の公家と言う。お優しいのは御顔だけ。
東京という組織社会。共同性を失くした、リベラルは口先だけの雇われ封建サラリーマンの縦社会。そこがこの種の者達であふれかえっているのは、参勤交代の代から少しも変わらない。
あんた自身の脳味噌に巣食うこの構造に、あんたが真に気が付かない限り、この国この社会は永遠に救われない。もちろん、あんたも。
gemeinschaftからgesellschaftへ? 馬鹿言っちゃいけねえ。人も社会も多層的だ。
多層的、重層的。これを束ねられるのがあんたの熱いマグマ、魂だ。これを失くして何の生きる意味がある。
干からびたgesellschaftの使用人、雇われ人、御用聞き。首都なる所は、この種のクズであふれかえっている。
この種の虚構は、精神構造においても社会構造においても解体するしか道は無い。共同性をベースとしたものに。一人ひとりの真の契約社会に。
共鳴共感、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。
(付記)
共同体的心性、生き方。これを忘れないこと。
俺はcommunistだ。この意味で。
「Non, je suis communiste.」