共同性の根 ―真の自立は上昇の中から生まれる訳はない・その4―

 夕方、2歳7ヵ月の孫娘と公園に行った。

 小学1、2年の女の子が二人、ぶらんこで遊んでいた。

 2つしかないぶらんこ。孫娘は近くに寄って乗りたそうにした。だが一つが空いても、片方に乗る女の子がくさりを握ってたぐるので、乗れないまま。

 俺は、少し離れた木陰のベンチで見つめていた。放っておくのが一番。

 そのうちもう一人が戻って来て、また二人でこぎ始めた。

 じっと見ていた孫は、戻った子に向かって「はは」「ははは…」と笑いかけた。

 気を引いているのだ。乗りたいのと、一緒に遊びたいのと。「あんぱんまん」だの「ばいきんまん」だの、思い付く言葉も投げかけて。

 二人は相手にしなかったが、そのうち飽きてジャングルジムに行った。ぶらんこにこれ幸いと駆け寄る孫。2歳の子には座席が高すぎるので、乗せてやった。

 二人はまた戻って来たが、一人は当然あぶれる。あぶれたのは、さっき孫が笑いかけた相手だった。ぶらぶら揺れる孫のぶらんこを、指をくわえて眺める側になった。

 やがて孫はぶらんこを降りたが、その場を離れなかった。取り返されたらまた乗れなくなる。そう思ったのだろう。

 すると女の子が声をかけた。「乗ってもいい?」。孫は少し小声で「いいよ」と応えた。

 三人が仲良くなったのは、それからだった。

 元々面倒見のいい子なのだろう。3歳位の自分の弟も入れて、4人で鬼ごっこを始めた。ルールを知らない孫にやり方を教えながら。

 孫は俺のことなどまるで忘れ、真っ暗になるまで公園を遊びまわった。俺はと言えば暗がりの中、遠巻きに見守るだけだった。

 子供達の母親が呼びに来て、ようやく遊びは終わった。「また遊ぼうね」。女の子達は手を振りながら帰っていった。

 子供の世界の心の機微。

 ぶらんこを譲るにしても譲ってもらうにしても、俺が声をかけていたらその先は無かったろう。子供同士の遊びの世界は。