人は並立の共和制は、自分が無いと無理 ―真の自立は上昇の中から生まれる訳はない・その6−

 制度と個人。

 政治と文学。

 思想と詩。

 道徳(外面)と倫理(内面)。

 これらはすべて対のものだ。

 より正確には、渾然一体のものなのだ。元々。人の人生生き方において。

 これを放棄したところに、人の進歩は無い。

 進歩で悪ければ、成熟は無い。

 これが無い場所にまともな若者も居なければ、まともなじいさんばあさんも居ない。

 この国は狡猾にも、立場(セミの抜け殻)に逃避する社会と精神構造を構築した。人間が組織・国家の飼い犬になることと引き換えに。

 何んのことはない、主君に忠義のふりをして俸給をもらう、朱子学道徳の封建武士社会が隅々まで広がったということ。明治以来百数十年の成果として。

 洗脳の素材は縦型教育(教育自体すでに縦型)、相も変わらぬ封建武士ドラマ、雇われサラリーマンの鏡の刑事ドラマと事欠かない。

 だから橋下のような、みせかけの純情・度胸をぶら下げたチンピラ学園の応援団長が台頭する。

 親が背中を見せて生きる。それが本当の教育。

 これは正しい。

 だがすでにこれは教育の概念を逸脱している。縦型(頭ごなし)では無いからだ。

 相手が感じる機会を作る。自分で考える場を作る。親が自ら行動することによって。生きるために。

 人は並立の社会の基本はこれだ。自立の生き方、自立の魂同士の共鳴。

 それはあかの他人との関係においても当然成り立つ。現実には結構普通に成り立っている。汗して生きる娑婆においては。

 汗して生きない場(自分の目と手と足と脳みそで生きない生き方)においては絶対に成り立たない。これは散々言ってきた。

 これを高度化した社会(進歩の一形態)と言った東京人の社会思想家がいた。

 もしそうならば、その種の人と社会は必ず滅亡する。人の基本原理が崩壊しているからだ。

 その種の社会の内側で恩恵を浴びている限り、飼い犬暮らしも一先ず快適だろう。人々は、滅亡さえも体のいい理由付けをするだろう。美学だのなんだの。

 とやかく言っても始まらないのも、人は並立。

 押し付けられたら、叩き潰す権利はある。誰にも。中央集権の縦社会は叩き潰すしかない。自分の人生を守るために。

 それにしても、自分が無いと共和制は無理。

 無理だとしても、自分はそうするしか無い。当たり前。自分の人生なのだ。

 大事なのは、自分の今居るその場所で、自前の魂で発想すること。ノアの方舟等々の救いの幻想、上昇幻想は持ち出さずに。

 せっかくの自前の人生が、一発逆転で崩壊する。詐欺師はこれを狙うのだ。



 共鳴共感、義理人情、人は並立の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。