腐った比喩と共同社会

 「よもぎ麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し」

 学校の先生が言いたがる言葉だが、これほどくだらない喩(たと)えは無い。

 人は混沌の中で生きてこそ、真っ当な感性が育つのだ。

 泥田を見よ。山野の土を見よ。一見腐敗の土壌と見える中でさまざまな菌や虫たちが棲息・共生して、生き物の世界を形成している。

 それぞれが生きているということ。へんてこりんな指向性など無しに。

 その中で相手の人生・背中を見、自分を見つけ、自分を育てるのだ。そうすれば嫌でも共生的なものに行き着く。

 コミューンとは、共同的社会とはそういうものだ。

 「キューバでは子供たちが路上で群れをなし、楽しそうに遊んでいる。貧しそうだが貧民臭は無かった。」

 あるブログのこの言葉を受けて書いたことがある。そうならば、カストロゲバラの革命は意味があったのだろうと。

 コミュニズムの本質はこの意味だろうと、俺は思っている。

 でなければマルクスは、疎外などという言葉は思いつかなかったろう。

 トータルな感性(本質を見抜く知の根幹)を妨げる、指向性の突出。資本制的欲望社会。

 労働疎外は、この種の指向性の突出が生み出す。これは俺の人生の実感でもある。

 人間社会の基底には、トータルな感性を養う共同の場がある。なければならないのだ。

 そうでなければ、人は必ず滅びる。いけすの中でしか生きる術の無い養殖魚のように。

 権力者は、だから装うのだ。いけすの主面を。収奪の実相を覆い隠すために。扱いやすいだけの良い子や下僕、奴隷共を育てるために。

 この世の権威・権力が生み出す虚構のいけす。これと対の心的現象、上昇志向。人と社会を、これがどれだけ腐らして来たか。

 共同性。その根底は人の暮らしだ。暮らしの基底は、人を愛し、子を産み育て死んでいく当たり前ありきたりの人生だ。

 生活第一党というものがある。彼らは半ば無意識にここに行き着いたのだろう。虚構との衝突や試行錯誤の果てに。この先どこに流れて行くかは知らないが。

 人のことは言わない。だが思考停止の要素を残したどんな思想も活動も、うまく行くことは無いと俺は思っている。

 例えばこの国に、支配の手段として永年続く天皇制。宦官神社・靖国。この問題を回避したり、人の共同性などと半端にダブらせている限り、社会も人の内面も行動も絶対に改善しないと俺は確信している。

 これこそ指向性(支配と差別)の隠れ蓑だからだ。本当は誰もが気付き、見抜いている通り。

 本音本質をとらえた理念無き所に、民主や自由がどうして成り立つというのだ。



 共鳴共感、義理人情、人はそれぞれ、人は並立、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。