「愚」衆と「賢」者

 互いを互いの手段としてのみ見る。他者も自己も、自分にとっての有用性(商品性)でのみ認識する。

 この種の社会を近代化(進化)の必然としてとらえるならば、橋下的博徒政治やマネーゲームのグローバリズを批判する根拠は無くなる。

 言葉として、ここまで言うのは容易だ。

 困難なのは、じゃあ一体誰が本当に人を手段とする以外の生き方を身に付けて生きているのかという点だ。この国この社会において。

 売られた喧嘩は買う程度の宣伝に乗せられ、博徒政治になびく愚者達を批判するのは簡単だ。

 「馬鹿な大衆」が嗅ぎ分ける、綺麗事や噓臭さ。

 これを越えるものが提示できたなら、ヒトラーの狂気も止められたろう。後の祭りになる前に。

 不可能ではないが極めて困難と俺は思う。

 「ええとこ取り」の自分を乗り越えないことには、無理だからだ。ユダヤ人(人間)同士の小狡さ。チャップリンが『独裁者』の中で示したごとき。

 これを越えるものを実践として提示しない限り、「愚衆」は権力・体制が示す見せかけの絆に簡単になびくだろう。

 自己変革の力。これと結んだ思想じゃないと無理だと、俺は思っている。形だけの仕組みの提示では。

 これには宗教性が必要だ。宗教性で悪ければ、自分に真に問う力。これを併せ持つ思想が。

 これが無い限り、阿片としての宗教や見せかけの教義に打ち勝つことは不可能だ。