頭に訴えるか、体に訴えるか
頭に訴える御馳走(思想)を用意すれば、受ける。
自分自身の人生生き方は脇に置いといて、幾らでも「感動した」と言えるからだ。自分の息子はコネとツテで社会システムに載せておいて、市場開放・自由競争の旗を振ったどこかの首相のように。
本当に大事なのは、体に訴える御馳走なのだ。
これは自前の感性と体験の、それも奥底から出たものじゃないと作れない。
これは、一口食って美味いと感じるとは限らない。
食うほどに、苦痛を感じて逃げ出す者も出る。
自前の感性と身体と実体験で消化しないと、吸収できないからだ。
この種の思想を提供できたのは、1960年代までの吉本隆明だけだった。商品流通としての思想界では。
だから吉本は止めた。下痢をおこす者ばかりになった80年代には。彼自身、下痢体質になったせいもある。それを社会の高度化の結果と、吉本は言った。
田舎の地べたを長年生きていると、体に訴える御馳走にはいくらでも出くわす。商品としての思想。これとは無縁な人々の中に。
1960年代までの吉本は、このことを表していた。商品的思想とは縁の無い人々の思いを。これが土台の思想を。下町のあんちゃんとして。職人気質の家の息子として。
思想とは元々こういうものなのだ。それを表現するのが、言葉を扱う者の本来の仕事。あんたが本当に、人民民衆のひとりなのであれば。
制度的なものに後押しされて流通し、商品として光り輝く思想。これを崇めることがどれほど馬鹿馬鹿しいかは、頭では分かるだろう。大抵の者達は。
この馬鹿馬鹿しさを本当に免れた生き方を、あんたはしているのかい? 体に訴える思想が否応無くこれを突き付けると、人は蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。
上部構造の蜘蛛達が消えた地点。ここで作るのが本来の思想だ。
「おうそうだ! おらもそう思っていた」。
同胞達のこの声を聴くことのみが、重要なのだ。
共鳴共感、義理人情、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。