共和制の魂

 鎮守の森の神社(地域地域の自然信仰)を制度で囲い込み、加工品としての自然(エセの自然)を自然であるかに見せかけて人の心をたらし込み、民衆を統治に組み込んだこの国の明治。

 この構造がいまだ少しも解体されていないのは、旧弊の国家主義やこれと表裏を成すエセ信仰=靖国がいまだ幅を利かせているのを見ても明らかだ。

 もう一つ。戦後民主の申し子づらをして先進を装った首都圏人(おのぼりのなれの果て)が、実体は権力権威や風向き顔色で立ち回る雇われサラリーマン、宦官に過ぎないことも、この国この社会が実は何も変わっていないことを証明している。

 自分とは何か。

 神にたらし込まれた民衆から人間を救い出したルソーの試み。これはこの国にいおいて、いまだ必要なのだ。

 周回遅れだろうが何だろうが、やるしかないことはやるだけだ。


 共鳴共感、義理人情、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。