似非

 放射能の危険性、国家やマスゴミの嘘、国家による殺人(死刑)の不当性、冤罪の不当性等々、正論を唱え続けるブログがある。

 去年の夏ごろだったか、食物に含まれる放射能の危険性を唱えた記述について俺は、「生活協同組合なども自主的に放射能検査をした方がいいのではないでしょうか」とコメントしたことがあった。このことは、今では当たり前になりつつある。

 書き手はその時、そんなことは国や公共機関がすることで、そんな金と手間のかかることを民間に任せるのは無理と決めつけてきた。

 この種の反応に出くわすと、俺は9年前の飯の食い上げ時代を思い出す。

 労組・協同組合関連の組織が仕切る清掃仕事を職安で見つけ、求職した時のこと。面接した担当者は、仕事についての考え方をレポートにして持ってこいと言った。それを見て幾日までに返事をすると。

 自営稼業が仕事を無くせば、無職以下。失業保険も当然無い。そんなもん書いてる暇はなかったが、「理念を掲げる組織のこと。それもありだろう」。そう思って言われる通りに提出した。いつまで経っても返事は無かった。

 電話をすると「ああ、あなたですか。駄目でした」。あんまり腹が立ったので、「人を馬鹿にすんな。協同だの何んだのを唱える資格はお前らには金輪際ねえ」。そう怒鳴って電話を切り、職安にも事実をそのまま言った。そこは職安の清掃仕事も請けていた。数日後、担当者の詫び状が来たが、破って捨てた。

 一昨年、ある集まりでこの担当者や労組天下りの幹部連中と出くわした。向こうはまるで忘れていた。腕組みした幹部の一人は、仕事の都合(頼まれ仕事の聞き書き)で前に座った俺の隣で大股を広げて腕組みし、長椅子の脇に俺を押しやった。マスゴミか何かと勘違いして、「反骨精神」を発揮したのだろう。

 反権力。そのほとんどが権力権威の裏返し、何かの上に腰かけた連中の小児病的反発に過ぎねえことは、長年の人生で嫌というほど出くわしてきた。口先の正義と生身の人への対応は、まるで無関係なことも。

 ブログでも、その程度は嗅ぎ取ることは出来る。



 共鳴共感、義理人情、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。