正しさという観念には絶対に寄り添うな

 人は生れ落ちて以後、みずから色々なものを感じ、色々なものを経験して自身の感性や思いを形成する。

 これがいかに主体的に育つか。

 これが当人の人生の一番の課題であり、周囲の者にとっての課題でもある。

 教育(これ自体嫌な言葉なのだ)と一口に言うが、正しさの上に腰をかけ言葉で人を教えるやり方は、民主を唱えようが主体性を唱えようが全部駄目と俺は思っている。

 これを脱することが形態的に不可能な学校社会(縦社会的仕組み)が、この意味の教育に最も不向きな場所だというのは言わずもがなだ。

 結論を先に言えば、親だろうが友達だろうが学校の先生だろうが、子供という発展途上人にとってはせいぜい辞書か参考書に過ぎない。青春の一時期の憧れ程度はあるにしても。
 
 当たり前だが子供にとっても軸はあくまで自分なのであり、それがいかに豊かに膨らみ育つかがその人の人生の要の部分を決める。

 人が育つ場作りの最良の方法。それは何度も言ってきたことだが、背中を見せて生きるということだ。親だろうが友達だろうが学校の先生だろうが。

 自分が行うということ。何より自分自身のために。自分の心に正直に。

 わが子であろうが誰であろうが、人はおのずとそれを感じる。実際、それを待つしかないのだ。

 もし誰かがこれにしびれを切らせて、言葉等々で相手を従わせようとするならば、それはこの意味の教育―というよりも人と人の関わりの基本―を逸脱する。

 こうした心境になった時は、わが身を振り返ってみると良い。しびれを切らせて言葉(や暴力)を相手にぶつけている自分自身を。

 そこにあるのは自分の都合なのだ。

 娑婆の人生では、人を待てないことはいくらでもある。自分の都合と人の都合。それが一致することはむしろ稀だ。

 そうなった時は? 黙って自分で行うか、契約に従って相手に要求するしかない。自分と相手の関係が、真っ当・対等の契約関係にあるならば。

 はっきりと言えるのは、正義を背中に背負うなということ。どんな時も誰に対しても。

 例えばの話だが、これがちゃんと出来ていればキリストとユダの関係も少しはましなものになっていたろうと俺は思っている。双方にとって。