イメージと実質 ―見抜く目があるんかいな―

 選挙が終わったので遠慮なく書くが、未来の党の嘉田というおばさんには違和感がある。ステレオタイプの知性じゃねえかなと。

 自分自身の感性や実体験を経由した知性じゃ無い、ということ。

 マスコミなんかと波長を合わせて(乗せられて)しゃべってる感じがあるのは、このせいだろう。

 科学者でも素人でも職人でも誰でも、仕事に本当に打ち込む者、真に物を作り出す者は、ステレオタイプ的なものをまず疑ってかかる。

 ここが大事なのだが、これらの人々は物事を最初から、いわゆる疑いの目で見るわけじゃ無い。(その程度なら、人相風体・学歴肩書きで人を仕分けるプチブル都市住民と変わらない。)

 物事に素直に接した結果、どうも変だ、しっくり来ないと体が感じる。ここが出発点なのだ。

 ここからしぶとく事柄を見抜いて本質にたどり着こうとする。自前の感性と、体験に裏付けられた知性を総動員して。

 これが出来ていねえんじゃねえかなということ。

 パターンでものを言い、おもねる。これは共産党市民運動など、御墨付きの正義の運動の通弊。だから人を見抜けない。娑婆に生きる生身の人を。言葉はごもっともでも。

 言いたいことはまだあるが、これ以上は止める。

 何とかしろやという気が、俺の方にまだあるからだ。