微量元素としての哲学

 日本の正当思想や生き方とされるものは明治以降、主君への忠節を根底に置く幕藩体制下の武士(封建サラリーマン)のそれでした。左翼やリベラルとされる人々の根底もこれでしかないというのが実感です⇒「本末転倒こそ大和魂の真髄 」


 ほんの一握りの武士階級の思想に過ぎなかったものが、集権的国家体制下の教育等の結果、民衆の中にまで浸透蔓延したのが明治から今に至るこの国の精神状況のように思います


 哲学や思想的営為に意味があるとすれば、それはあの敗戦後のように、思想の上着を着替えるだけでは無意味なのでしょう。この無意味さは長年気付かれていながら変革は先送りされ、今のような破綻的な国家と社会の状況に至ったと感じています


 敗戦後、左翼や民主主義の側の人々は言葉鋭くかつての帝国主義体制を批判しました。それは概ね正しかったと思います。しかしそれが、この種の体制と意識構造に絡め取られた自分への批判に向くことは極めて稀でした


 体制や他者への批判に終わらず自分を変える。これが無ければ真に新しいもの、本質をついたもの、現実の力になるものは生れようがない訳です。思想や哲学の本質は、自分(実存)に根ざしているからです


哲学や思想を社会を動かす小道具として考えれば、その力は微々たるものでしかないと思います。大半の人々は日頃、それを意識して暮らしているわけではないからです。しかしこの種の微量元素が本物か偽物かは、日常の人の交わりから人や社会の成長に至るまで、決定的な影響を与えると感じています



(付記)
 その意味で私たちは、民主主義や人の自由をより本質的なものにしなければならないと感じています。例えば下駄を他人に預けるかのごとき立憲君主制はやめて、憲法と法の本質をより徹底させる等々です