(1)上昇志向と向上心 (初出 07/15/2007)
上昇志向と向上心。
こいつは、似て非なるものだ。
上昇志向は、幻想の枠組みを上り詰める意識。向上心は、自分に向けた感性。
こいつは大抵絡み合っている。そして誰もがある時、踏み絵を踏む。
俺は、私は、どっちに軸足があるのかな―。
例えば、仕事への良心。
言われたままにやっちゃうのか、胸にひっかかるものを、解きほぐしつつ進むのか。
娑婆の現実じゃ、どっちが「得」かは明らかだ。後者の道を行けば、二倍、三倍の労苦が要る。組織じゃ、間違いなく報われない。
効率だけがお友達の利益社会では、そいつは有害だ。資本と現場が分離すれば、この傾向は更に進む。
身も心もそぎ落とす組織社会に、疑問に体当たりする土性骨は存在しない。
もう一つの問題は、「お仲間」のサラリーマン、サラリーウーマン達が、その種の者の排除にかかることだ。右から左にたらい回しの日々の仕事に、余計な苦労を持ち込むからだ。労組なんかも結構、その役割をする。
踏み絵というのは、ここにおいてだ。労苦に耐えるか。排除されるかも知れない自分に耐えるか。
どっちが得かを思うこと自体、すでに前者に軸足だ。
労働者階級というが、階級心理の中核は、元々ここにある。
でなけりゃ、自分のぐうたら誤魔化すだけの親方日の丸労組と、どうひっくりかえしても変らない。
何のために働くか?
真っ当な暮らしがあれば、馬鹿でも思う疑問、自省だ。
家、組織、権威…。意識の軸が「社会」にある限り、向上心はいつも、上昇志向に吸い取られる。
独立、自立、実存の根本と、共和制の根本。こいつが表裏一体とは、このことだ。
非政治からの政治とは、このことだ。
非政治を装う政治の仕組みは、今もある。個人のエゴ、欲望を体よくごまかす王権、神権。どこもその手を使う。合衆国なるものも同じだ。
こいつからの脱却が、真のインターナショナリズムだ。
そいつはいつも「独り」に始まる。日々暮らす、一人ひとりの人生の闘いだ。
非政治を装いつつ、結局は既存の枠に尻尾を振るか、振らないか。
この軸足を探り当てるのは、自分のリアルな人生だ。
でなけりゃ、何のために生きてるんだい?
枠組みは常に、口先「民主」の豚達の揺りかごなのだ。
明治以来の、いや江戸以来の虚構の上にあぐらをかく、インテリ達の「先進」性、イエからの脱却を装う市民達の「個性」と「民主」。
その内側に隠し持つ、特権意識と差別の性根。
この種のウソの解体の上に、共和制は築かれる。
先は長え話だが。