(2)「家」と女 (初出 07/05/2007)


 「家」と癒着した女。

 これほど強烈なものはないという印象を、この頃あらためて持った。

 

 自家の家系を保つために、相手を探し結婚する。はっきり言っちまえば、そのために男を引き込む。

 その家の観念、価値観、思い込みと癒着する。そこの意識に根を置いて、テコでも動かない。生き方の矛盾・撞着を平気で犯す。

 その種の女にとって、癒着した情念・観念以外はすべて建前、上辺の事柄だ。だから「自省」そのものが存在しない。

 

 俺の田舎じゃ昔から、ある種のヘキ地に飛ばされる教員・役人に言い伝えられた“警告”がある。「若いもんは、あそこへ行った時は気をつけろよ」。

 女を、娘を宛がわれて、「家に引き込まれる」というのだ。下宿先などで。

 今も連綿と受け継がれる、教員・役人達の「内輪の連絡事項」のはずだ。たまたま出会った村娘とのロマン程度なら、いくら思い上がりの役人共のセンスでも、こんな言い方にはならねえだろう。

 

 こいつは実は、場所を選ばない話なんだなというのが、俺の実感だ。

 東京・首都圏の家でも、強烈にこの種の臭いのすることがある。はた目には、「知的な市民」そのものの家で。

 下の子はある時、こんなことを言った。「なんか俺が、その家に入るのが既定のことみたいになってる気がする」。いっ時付き合った同学年の子の家を、幾度か訪れた印象なのだろう。俺は黙って聞いていた。ずい分早とちりな話なのだ。相手の家がだ。

 一年ぐらい経って尋ねたら、「もう別れた」。なぜと聞くと「世間知らずな気がする」。相手の子がと言ったが、家そのものにつながる話だろうと感じた。

 「世間知らず」は、わが子の言い方で、子供なりに感じた「閉ざされた世界」を指すのだろうと俺は思った。推測するにそれは、東京などによくある、わりと「知的」でそこそこ豊かな「いい家」なのだ。その種の外観と内側の想念は、多分関係無い。

 

 振り返れば、俺にも似た経験はある。サラリーマンとなり、関西へ行った頃の話だ。ひとまず見つけたボロアパート。最初はぞんざいだった大家が、ある時ころりと態度を変えた。俺の「お勤め先」を、たまたま何かで知ったのだ。商品価値が変ったのだろう。「もっといい部屋も持ってます」と。

 それから集金には、大家ではなく年頃の娘が来るようになった。彼女は恥ずかしそうにしていた。結構かわいく悪い子でもなさそうだったが、子にそんなことを強いるクソ大家には腹が立った。それに俺が娘なら、そんな親の言うことなんか聞くわきゃねえ。なので、さっさと引っ越した。

 

 家付き娘が母親になると強烈だ。子がたまたま取得した「科挙の利権」等々を、家系の優越などと勝手に思い込んで省みない。人を平気で見下す。差別する。それが、この手の家の「強さ」に転化する。

 俺は女じゃないから、この種の女の精神構造の奥底までは首を突っ込めない。

 関わるか関わらねえかの、二つに一つぐらいだと思っている。はっきり言って、金輪際関わりたくねえ。

 

 『砂の女』とかの小説もあったが、それが女の本性に根ざしているのは、確かなように思う。だが家との癒着は、本性とは言えない。それは男も同じだ。

 「家」との癒着を解きほぐすのは、女自身の課題だ。それができねえなら、勝手にしろで関わらねえだけだ。

 首相とやらの母親もそうなんだろうな、と感じてる。