自然人と原形 (初出 9/07/2006)


「放縦な生活ののち諸学を修め…啓蒙の知性偏重と社会の不合理をはげしく批判。フランス革命の予言者的役割を演じた。いわゆる文明とこれに伴う社会の人為性が自然的な人間生活をゆがめ、社会的不平等を助成し今日の社会悪をもたらしたことを指摘し、自然に帰ることを提唱。このために教育論では知性ではなく情操尊重の教育を説き、また社会思想では、契約による新たな社会によって不平等の是正を説いた」(岩波小事典『哲学』)



 これはフランスの思想家・ルソーについての記述だ。私はルソーは読んだことはない。だが、彼がこの種のことを言うに至った気持ちは、よく分かる気がする。百数十年前、雪国の田舎の村で、憧れとしてのフランスとは無縁の人々が、彼の書を読み下し、共感した気持ちはよく分かる気がする。



 ルソーは言っているのだ。セミの脱けがらのような意識と心性を脱して、自然人という自分に回帰することを。



 神の名を借りた王権への対抗、その裳裾にすがる貴族社会と利権に連なる者達への対抗…。思想史的には色々意味づけがなされるだろう。だが知的な意味づけを離れ、一人の人間の思いとしてとらえれば、無頼の人生を経た彼が言いたかったことの、より根源的な部位に行き着くことができる。雪国の田舎者達がそうだったように。



 知的にたどるだけでは、思想の本質には絶対に行き着かない。それは本源的な感性、情念の問題だからだ。



 私は、彼のうわべの思想から共和の意味を語る気はない。誰それの影響でこうなった。知者達がよくする直列的な解釈ほど、人を愚弄するものはない。人間は変わらない。数百万年前も今後も。変わるのは古びたもなかの皮、セミの脱けがらとしての意識の外皮だけだ。人間の感性、情念はそんなものは飛び越して、並立的に結び付く。



 自然人と言おうが原形と言おうが、同じことだ。違いにこだわるのは、重箱の隅をつつく解釈屋だけだ。



 本質は、頭がいいから分かるのではない。感性が腐らなければ、知性に媚びなければ感じられる。それだけの話だ。



 農村賛美、自然賛美の話ではない。そんなものは糞食らえ。自分自身の原形に拠って感じ、怪しいものは怪しいと言い、変えた方がいいものは変えると言う。それだけの事だ。