感性の反乱 (初出 9/08/2006)


 ある旧制中学の教務日誌を、大正末から昭和の敗戦時まで読んだことがある。



 気がついたのは、ある時を境に記述者の意識が棒のように、感情の無い機械のようになって行ったことだ。



 1931年の、いわゆる満州事変の頃はまだよかった。この先どうなるかの不安の心理が読み取れた。だが36年からは棒のようになった。二・二六事件以後だ。以降、神社参拝、皇居遥拝、軍事講和など日々の出来事が、何の感情もなく、ごく当たり前の出来事としてつづられるようになった。それは敗戦の日まで続く。



 救いは、敗戦間近の頃の生徒達の反乱だ。



 彼らは政治の、戦争の大局など知りはしない。お国のためにせっせと勤労動員。「だがおかしい」「だが変だ」。そんな気持ちが高じて、動員先の使役の工場長を投げ落とす。威張り腐くさる配属将校を雪の中に放り出す。「万歳、バンザイ。お国万歳、軍人さん万歳」。そう言いながら、一団となり彼らを胴上げ。放り出す。



 運動会などの行事の時、普段はいばる教師をやりこめる、常套の手法だった。いわゆるほめ殺しと同じ。だから処罰しにくい。



 配属将校を投げ落とした者達は、全員内申点を下げられた。これが下がると、旧制高への進学からは事実上締め出される。その程度で済んで良かったというべきか。



 この種の反乱は当時、全国どこでもあった。若者の感性と直観。その同時発生。連絡網などあるはずがない。



 反乱に参加した者達の中には、退学させられた挙句、その後も執拗につきまとう当局によって、激戦の死地に兵士として送られた者もいたという。



 動員先で、川に流れる中国人、朝鮮人の遺体を見た。逃げた彼らの山狩りを見た。彼らは八十を過ぎた今も、変わらぬ怒りで戦争の愚劣さ、国家の怖さを記す。



 彼らの反乱は敗戦後も引き継がれた。少年兵への志願を迫った教師のつるし上げ、ころりと態度を変えた者達のつるし上げ。そして自治会活動へ。彼らが初期に発行した生徒手帳には、教育基本法の条文が貼り付けられていた。「お前のため、おクニのため」。そう言い駆り立てた近くの親戚よりも、遠くの他人の方がましだったとはこのことだ。



 彼らの怒りの情念は、70年近くまで確かに続いた。綴りたかったが、それやこれやの資料調査に手間取って、金も底を尽き、時間も切れて仕事から放り出された。



 「歴史を含めて、他人のことほじくるのはお終い」。そう決めたのもこの時だ。やり尽くしたのではない。自分の中にも必ず、歴史に反映するのと同じ人生の流れ、感性の流れがある。それをつかみ出すことが、先達の情念を受け継ぐ道。そう感じたからだ。他人のためではない、自分のために。