教育基本法(初出 9/26/2006)


 敗戦後、旧制中学から新制高校になったある学校の「生徒手帳」には、下記の一文が記されていた。昭和で言えば20年代中頃のことだ。生徒達が自分らの手で作ったものだ。



 …われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。…



 第一条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。



 これは今、「改正」なるものが企てられている教育基本法の前文(抜粋)と、第一条だ。 



 敗戦については、いろいろな思いを聞かされたことがある。私の知る限り、その頃青春を送った者達には、敗戦とその後の数年間は確かに、久々頭上に開いた青空だった。仕事柄私は、敗戦間もない頃の若者の写真を何度か見る機会があった。旧制中学、商業学校、女学校、農村の若者達。そこに写る彼ら彼女らの表情は、どれも底抜けに明るかった。



 そんな若者達や教師にとって、上に掲げた法の一文は真っ白なキャンバスだったはずだ。そこにはしたり顔の伝統も、説教を垂れる家父長達の影もない。実質上強制もない。人にとって、前向きに生きる一人ひとりの人々にとって当然のことが、当然のこととして記されているだけだ。「魂を吹き込むのは君達だ」。この文章はそう言っているに等しい。私は、この白いキャンバスに自分なりの色を塗ろうと、懸命に生きた若者達のことを知っている。



 この真っ白が気に食わない者達がいる。何かを垂れてもらわないとおさまりのつかない者達がいる。共通するのは、あっち向いてホイとばかり、人の顔を同じ方向に向けてしまいたい者達だ。命令したがり、されたがり。奴隷根性の裏表。



 我々は、踏ん張らなければならない。いろいろ課題はあるにしても、どうにかここまで保ち続けてきた、当然のものとしての人の領域―、それを護るために。自立とはしんどいことだ。この当たり前の前提に立ち返って。親任せ、育ち損ないのいびつさを、もっともらしさで誤魔化そうとする者達の衣装の製作に手を貸すなど、愚の骨頂だ。