野茂がベネズエラで投げてるという。

こういう這い上がり方は好きだ。


 嫁さんは「成功すれば何億円ももらえる人とあんたは違うってこと、忘れちゃいけないよ」。


 そりゃそうだ。数億円はともかくとして、黙々わが道行けるのも、最低限の実入りあっての話。入れ込む仕事をしゃかりきで上げた途端、支払いにも事欠く現実だけが目の前という状況には、嫌というほど出くわした。腹据えた仕事振りはどこへやら。世辞をいい、目先にとらわれ米つきバッタか職安通い。散々見てきた嫁さんが言うのは、至極当然。


 だがそれでも、体で飛び込んでく奴はいい。自分に賭ける。可能性に賭ける。究極の博打。


 可能性の実現と金をつかむのがイコールなら、それはそれに越したことはない。だが人は誰でも一長一短。資質も思いもさまざま。金に縁のある奴、無い奴は嫌でも出る。


 一つ言えるのは、交換価値が軸の人生は、体当たりの人生と嫌でもかい離するということだ。


 体当たりという感性の行為には、人の総てが含まれる。金のためのはずが、いつの間にやらトータルな世界に突入するのも、体当たりの者達特有の現象だ。「夢」から醒めたそのときに、失望絶望しか待ってないのを百も承知で。出来合いの娑婆。こいつは確かに現実なのだが。とりわけ貧乏人には。


 その昔「俺は人生の金鉱探し」と言って、作家稼業を生きた奴がいた。たまたまだろうが嫁さんと同郷。ある種の系や仕組みに忠実な者ばかりの俺の田舎にゃ、まず無いタイプ。


 金鉱とは、トータルな自分の表出・表現の世界のことだろう。その鉱脈を自分の中に見つけようと、七転八倒の挙句死んで行った。作家というより、ほんまもんの思想家の資質だった。無頼派の一人。


 なぜか知らんが、俺はあの土建屋宰相といわれた雪国の親父に、似たものを感じる。その昔、16mmカメラ向けた時、うるせえハエだという顔で俺をにらんだ。おっさん顔面神経痛患ってて、どっちから撮ったもんかと俺は迷った。

 
 ヘンな話だが、体当たりの奴が何億円つかもうが、腹は立たない。ひがみも出ない。法の網が男をどうひっかけようが、それはそれという程のもの。真似する気もなかったが。その頃、親父を持ち上げ真似した奴らの大半は、親父のことなどもう記憶の隅にもねえだろう。


 野茂がんばれや。また何億円つかもうが、それはそれ。