生きてて面白いと感じるのは、人の爆発的な力に接した時、その秘密を垣間見た時だ。もちろん一番いいのは、自分が震源になることに決まってる。


 こういう経験は、大抵の者は人生で一度や二度はあるだろう。というか、あるのだろうと思いたい。自分の中の予想外な力に気が付くことが、想定外の結果を得ることが。


 陽明学の中に込められたものはこれだと、俺は思ってる。朱子学のたぐいの統治の学―静的摂理の中に人間を押し込める、良い子の学との本質的な違い。



 学校というのは常に後者だ。威張りくさったスポーツ指導者も、社会の序列を家庭に持ち込む父親母親も、カイシャという組織社会の者達も、ケチな性根で叩き合う小市民の社会ももちろん同類。バカな自分を真ん中に据え、人を持ち駒にしたい欲念だけの、芽むしり仔撃ち共。



 爆発的な力。こいつが出るのは俺の経験じゃ、夢中の時だ。子供の頃の絵や彫刻、機械工のアルバイト、撮影、番組作り、歴史の掘り起こし…。受験学力のたぐいも例外じゃなかった。何かが身に付くとは、この状態の時だ。


 夢中というが、誤解しちゃいけない。まるで周りが見えないわけじゃない。そういうこともたまにはあるが、本質的にはこういうこと。周りが見えても自分を実感できる、自分が軸の時だ。アタマのレベルじゃない体感で。


 こいつの持続は困難だ。体力任せの持続じゃ数ヶ月、良くて一年。何もしねえ(言われたことだけやる)者達が得をする静的社会のこの娑婆じゃ、疲れ果てたその時に待ち受けるのは、身も心もfeeling smallの空っぽな自分。


 何度か馬鹿繰り返してはっきり今思うのは、何だかんだ言っても、自分が軸の人生がやっぱりリアルということだ。空っぽになろうが、どん底になろうが。結局損だからやらねえじゃ、朱子学社会の糞共と寸分変らねえ。暮らしの限度のぎりぎりまでは、やってみる価値はある。家族がいても。どこが限度かについちゃ、散々苦労し苦労かけたが。



 二束三文の田舎の歴史の掘り起こしも人物史も、この手の生身の人間にぶちあたるのが楽しみでやって来れたと今思う。そういう奴らは確かにいた。二世紀前も一世紀前も、六十年前も。多分今も、これからもだ。


 人を自分を発見する面白さは、こういう面白さだ。共和制の本質もこいつだ。


 静的秩序を仰ぎ見る去勢社会、消えて無くなれ。