「思いなんて誰も持ってる。表す力あれば、文章家とか芸術家なんかより何倍も膨らんだもの作れる人、世の中にいっぱいいると思う」

 これは嫁さんの言。義母の遺品を整理して拙い俳句を見つけた時、言ったことだ。


 言うに言われぬ思いを抱え、日々暮らす人々。ものを書く、何かを表すってのが仕事として成り立つとすれば、それはこの種の思いの代弁者ってことだろうと俺は思う。

 人々は、その種のものに本来金を払う。


 これは、いわゆる大衆芸に限ったことじゃねえと思う。

 どんな小難しいものでもそうなのだ。小難しけりゃ小難しいほどそうなのだ。

 玄人に分かること言うのがプロじゃねえ。素人にかみ砕いて言えるのがプロだ。哲学だろうが法律だろうが何だろうが。



 暮らしと心の根底は、誰だって変らない。そいつを基本で感じてれば、どんなにクソ難しいものでも、必ずかみ砕けると思ってる。


 独創ってのは、こいつに根を置いた新たな表現のきらめきだ。

 こいつは、体感レベルからスタートしなきゃ得られねえものだ。正面から、避けずに人と関わること、上辺の言葉じゃねえ、行動レベルで関わること、やり合うこと、感じること。


 こいつと技法が融合した時、独創は生まれる。夢中と必死の世界の中で。


 それ以外は利権と結ぶ古今伝授、オタクの世界のたわ言、衒学に過ぎねえ。

 大衆の原像、魂の源。どんな言い方でも構わねえが、その種のものを心に形成できるのは、上っ面、姑息を捨てた真っ当な生き方だと思ってる。

 人の実存ってのはそのことだ。孤立した神秘でも不可思議でも独創でも何でもねえ。人を感じる自分のこと、その種の磁力を生成するエネルギーのるつぼとしての自分のことだ。