庶民の中へ
吉本隆明はかつて学生達に、「おめえら地べた這う庶民になれ」と言う意味のことを言い続けた。
この通りには言わなかったろう。だが彼の雑文の中には常に「そうしろ、そうしろ」というものが込められていた。
実際、その通りにしたものはいたらしい。
前にも書いたが、70年代終わりか80年代初めだかの頃吉本は、「あんたの本なんか読まなきゃうちの息子は…」と、電話か手紙か知らないが「親から怨嗟の声をぶつけられた」と言ってた。怨嗟の声を、電話で直接ぶつけてくる者達(多分シンパの学生くずれ)に悩まされるとも言っていた。
学生が学生の身分と科挙で得た資格を捨て、いきなり娑婆へ飛び込めば、そりゃきつかったろうと思う。
70年代中頃だったか。爆弾闘争でつかまった者が、「人民の海なんてどこにも無かった」と言ってたのをよく覚えてる。
ある労働組合史を編纂した時も、一人の爺さんが言った。「労働者なんて馬鹿なもんだ。そいつらのために闘って左遷・降格させらても、職場じゃそれだけで馬鹿にし始める」。そう言ってたのが忘れられねえ。
この二つの述懐は俺自身、身につまされてよく分かる。
よく似た行動とった俺には、それでも7年間のサラリーマン生活があった。カメラマンという技術職。映像・放送業界を、現場の人との関わりを含めてそれなりに熟知するに十分な時間があった。
文字通り素っ裸の無手勝流になった時も、そいつを手がかりに仕事広げることはできた。学生あがりにあり勝ちな、口先小手先のグレたもの作りにならなかったのも、世話になった職人カメラマンのお陰が大きかった。
その種のノウハウもないまま、学生という立場も自負も主観的には放棄して娑婆に飛び込んだ者達は、知らんぷりのみがまかり通り始めたあの時代の中で、それこそ手も足も出なかったというのが実情だったろう。
今にして思えば、嫁さんと二人の子がいたことも、俺には決定的なプラスだった。ひどい足かせと思ったこともあるが。家族には済まんことだったが。
人間一番苦しいのは、暮らしに追いまくられることより、孤独なのだ。
真っ当な者ほど苦しんだろう。「才能」などの嘘っぱちも、良心とがめて使えないまま。
80年代中頃近くか。吉本は「もう俺も免責されていいだろう」と言ったとか。よく付き合った親父なんだろう。肝心かなめのその時にゃ、尻に帆かけての者達ばかりのこの国じゃ特に。
自立説く思想家に、それ信奉する者が文句言う筋合いはねえ。確かにそうだが観念的な決意と実行動の間には、千里の差がある。手に職付けられる学校出ならともかく。
その差が生み出す孤独と呪いに付き合ったとすれば、吉本ってのはいい男だ。俺なんざ、この馬鹿うるせえとやったろう。
吉本はその後、ヘンな方向に向かったとか。(日本は高度化しちまったとか言ったらしいが、74、5年以降はまともに読んでねえから知らないのだ)。
その後のことはともかく、真面目な学生たぶらかした「大衆の原像」なんてのは確かによかった。今でも俺のヒントにゃなってる。絵に描いたような大衆なんて、どこにも居なかったが。