吉本隆明と言えば23年前、こんな思い出がある。


 町工場の町で、創業主の親父達の聞き書きを作ってた時だ。

 ある工場主の親父が、俺を昼飯に誘ってくれた。


 工場は、戦後親父が帰って大きくなった。大きくなったといったって、従業員せいぜい百数十人前後の下請け工場だ。


 アイデア製品とか色々作ってきて、当時は精密機械の部品作り。「8ミリで工場内撮って、人の動きをコマ数で数えて機械の配置とか工夫した」

 その頃まだいた、仕事となりゃ徹夜で必死の機械屋だった。「○○監獄」なんてあだ名は別の工場だったが、働く奴にゃきつい所だろなと俺は思った。話す分にゃ面白い、いい親父だった。


 この手の工場主に共通なのは、俺の師匠だった職人カメラマンと同じ匂いがすることだった。彼の親父は工場労働者か職人だったんだろうと、俺は勝手に思ってた。


 話してるうち、親父は戦前の高等工業の出なのが分かった。そこは、文芸批評家でもう死んだ奥野健男という男や、吉本の母校だった。親父が出たのはずっと前。隅田川かどっかのそばに学校があった頃だ。


 「そういや奥野って文芸評論家いますね…」

 何かの話で俺は言った。親父はニコニコうれしそうだった。後輩の本を、気に入って読んだことでもあったんだろう。


 次に、俺はちとためらってから言った。「吉本ってのもいましたね」。

 途端に親父は不機嫌になった。やっぱり言わぬが花だったかと、俺は後悔した。


 その頃の吉本は、まだ娘が売れる前だった。どこの馬鹿が付けたのか、「思想の巨人」なんて下卑た形容詞くっ付く前だった。子供の学資か何かで散々苦労してるらしいと聞いた頃だった。

 親父にゃ多分、左翼・学生崩れのチンピラ批評家に見えたんだろう。この町工場の町も、1970年から75年頃までは赤旗で揺れたという。


 ひょっとしたら親父の息子も学生時代、吉本にいかれて外れちまった口じゃねえかな…。

 なぜか俺はそう思った。吉本と聞いた時の親父の顔は、そのくらい険しかった。



 俺は、吉本ってのは案外この手の親父に近いと思ってる。作り出したら、徹底的にやらなきゃ気が済まねえ技術屋なのだ。職人といってもいい。

 どこか機械油の臭いもする、自前の世界持つ知性。こいつが吉本だった。この歳になりゃ、学生上がりのインテリ臭や東京人臭さも感じるが。



 その昔、アカデミズムの権威とやらに土着派と言われ怒ってたが、いいじゃねえか、土着派で。

 人間は、上昇しちまったらやっぱり駄目だ。地に足付いてねえと。当たりめえのことだと俺は思ってる。


 東京に住んでりゃ、ヒトは高度化しちまったように見えるかも知れねえが、そんなこたあねえぜ。吉本さんよ。

 大衆の原像は変わりゃしねえ。機械や木の股が子産み落とすようにでもならねえ限り。裏町が消えようが、横丁が消えようがだ。何も変らねえさ。