糞の街のどっかの学校が、「優秀な受験塾」の補習取り入れたとか。

 何だかんだ言ったって、それが人間の本音?

 そうさ。糞の街の本音。社会を時代を人間を腐らす糞の街の、糞虫達の本音。好きにするがいいぜ。



 俺が科挙を、科挙にはまった奴らを糞と呼ぶのは、正真正銘糞だからだ。糞ってより、からっぽのもなかだ。上っ面体裁の皮かぶっただけの。


 あるもの仕方ねえ。取りあえずやっとく。飯のため。

 こういう太え奴は、東京にゃいねえ。俺の田舎にもいねえ。



 科挙が人間駄目にするのは、減点法だからだ。百点の神戴いた―。

 教える方は楽だぜ。自分そいつに重ねて怒鳴りゃいいだけ。


 いえいえ私ゃやさしい?

 やさしいさ。既得のなんかにどっぷり漬かり、腰下ろし。外れた奴は無視のやさしさ。
精神の豚。そんなてめえはつゆ疑わねえ、カンダタ見下ろし糸垂らすお釈迦。



 俺が、上っ面消滅したかの宦官の学=朱子学蹴飛ばすのは、立派に生きてるからだ。科挙の中に。この宦官登用の仕組みの中に。崇める糞虫共の性根の中に。


 歴史たどれば馬鹿でも分かる。譬えでも何でもねえ、正真正銘の史実ってことが。君主戴く封建武士のガクモン・仕組みの、上っ面近代装う焼き直し。こいつが今まで続く明治手製の科挙の仕組み、科挙の精神ってことが。

 使い倒す方は楽だ。減点法の精神は。減点しかねえからな。越えられる心配ねえからな。

 自分乗っかる仕組みはテコでも動かさねえ、動かしたくねえ奴らにゃもってこいの仕組み、精神。一生君主にすり寄り続けの孔子手製。もっともらしさの道学の仕組み。


 こういうとこからは強迫神経症が生まれる。いじめが生まれる、「下」と「異端」探すにやっきな者達の―。糞の街見りゃよく分かるべ。望みは上昇・ステータスの糞虫の巣。学校も家も巷も職場とやらも。


 明治の後期。糞田舎に中学出来た。今でいう地域興しの、民権の末裔達が奔走し。
 出来上がったのは造りまで神社まがい、奉安殿押し戴く狂気の学校。(「中央」真似た類型建築なんだろね。当時の)


 「中央」仕立ての精神主義・出世主義の校長が、毎週毎回精神講話。教師達はうんざり、生徒達はたまらず反乱。糞真面目に聞いた学校旗手(当時の首席)は三度立て続けに「一高」落っこち、肺病病んで死んじまった。「旗手としての責任に対し、母校に対し小生の蹉跌は甚だ恥じる処に…」。この強迫症の一文残して。
 気楽に受けりゃ楽に入えったろうに。肺病なんかにゃならなかったろうに。


 こういう糞教師の末裔が上っ面やさしさぶら下げ、もっともらしく歩く街。それが東京。虚構と惰性の空中楼閣に、強迫的にすがる糞虫の街。それが東京。科挙の挫折の劣等感から一生抜け出せねえ、箸にも棒にもの糞田舎に、御用達の金太郎飴ばら撒く街。それが東京。


 本気で民主口にするなら、自由と自立のたまうなら、科挙にすがる糞の街、そいつと相似の糞田舎、それに乗っかる糞虫共解体するしかねえべ。何代かけても。