労働者の怒り。
 こいつは本気で生きた者じゃなきゃ、分からねえ。


 簡単な話だ。本気で生きたことねえ者に、本気で働いたことねえ者に、本気で作ったことねえ者に、疎外の怒りが、疎外された者の怒りがどうして分かるってのか。


 労組のダラ幹の怒りは、「被害者」売りの取り引きだ。仕事の中身は無縁。自分産み出す仕事の中身は。
なので現実の仕事は苦手の、ぐうたらの集まりになった。ぐうたら匿うソシキになった。
 官僚共と変らねえ。官僚制とはこのことを言う。投げられた餌に尻尾振る、物取りの豚。戦場に引っぱり出されて死んだ者の命を、敗戦を、民主を、戦後を食い物にした豚。「団塊」なんぞ典型の末裔。だから何も出来ねえ。言い出せねえ。おめえがやってみろやと言われりゃ。


 左が全部駄目なのは、ミンシュが全部駄目なのは、「被害者」隠れ蓑のぐうたら叩き出す度胸がねえことだ。全体腐らす腐れリンゴを、叩き出す根性がねえことだ。


 労働者運動は、職人運動だ。自分の技量土台にした―。


 こいつ忘れた運動は、十把一絡げの叩き売りだ。腐ったリンゴの値段まで、いずれ嫌でも下落する。まともなリンゴもこき混ぜて―。


  断っとくが、俺が言ってるのは「ワタシ達は特別」のエリート共の運動じゃねえぜ。科挙の偏差値印籠の、知者共の運動じゃねえぜ。
ミンシュの運動が腐るのは、虚構の特権護ろうとするからだ。「あんたは馬鹿」の一言が言えねえ。自分にはね返って来るの怖れて。てめえ持ち上げる虚構ばれるの怖れて。自分の中に隠し持つ、差別の本音見えるの怖れて。
 なので上っ面やさしい。だが虚構に触れる本気は疎外する。安全地帯で同情するが、「下」と見下す者の本気は怖れる、排除する。虚構の特権護るために。この時ばかりは、腹に隠す差別むき出しにして。こいつが都会に巣食う口先民主、戦後とやら担ったエリート民主の本音だ。学生運動も亜種に過ぎねえ。


 こいつはあくまで譬えだが、「ワタシ達は特別」の朱子学民主じゃ駄目ってこと。「やりゃできるぜ、誰だって」の陽明学民主じゃねえと。(朱子学が宦官養成の学ってのはイロハの常識。儒学そのものがすり寄りの学だから、陽明学だって持ち上げるほどのもんじゃねえ。人間探り当ててる分、革命の芽は持ってるって程度の話だ)。


 やりゃできるぜ、だれだって。


 こいつが、仕事のためにゃ孤立も恐れねえ職人の本音だ。きついこと言う労働者の本音だ。「やりゃできるぜ」。だからきついのだ。真っ当な労働者運動の本音だ。


 結果はその時々で違う。一つの指標じゃ優劣は出る。だが本気の者にゃ良さが必ずある。現実の仕事の中でも、連帯するに足る良さが。こいつは俺の経験だ。


 仕事は結果。結果で賃金に差は出るさ。


 だが切り捨てねえ。馬鹿にしねえ。こいつが真っ当な職人の運動、真の労働者運動の基盤だ。



(追記)
 以下は他のサイトで書いたものだ。対なので再録。


◎「疎外と怒り」


 若い頃のマルクスは、疎外を言った。

 労働疎外って奴。

 労働の成果が、よそよそしく自分と対立するって奴。


 こいつは若きマルクスが、詩人だったマルクスが、真っ当なドイツ職人労働の感性を根に持つマルクスが、感じたものを素直に言った言葉だ。


 その後の解釈家共のことなんざ、どうだっていい。

 俺が感じるのは、若い頃のマルクスの真っ当な予感だ。

 労働というものへの。働くということへの。

 そこから生まれる怒りへの。


 本気で働いたことのある奴なら、分かるはずだ。

 打ち込んで働いたことのある奴なら、分かるはずだ。

 若きマルクスが予感した労働の本質が。怒りの本質が。

 観念じゃない、経験で。


 労働は、人間性の全的な開示だ。

 肉体と感性の全的な協働だ。

 ネジ一本生み出す労働者も、そのことは感じるはずだ。

 全知全霊の意味を。


 体を張って作り出す。寝食忘れて作り出す。

 この種の経験のある奴ならば、体得してるはずだ。

 若きマルクスが、若造マルクスが予感した労働を。そこから生まれる怒りを。


 その成果が収奪される。よそよそしいものになる。

 搾取。分かりやすい言葉だ。


 だが俺は、このことははっきり言いてえ。

 搾取を搾取と感じる本当の感性は、真っ当な労働の中でしか、全知全霊の労働の中でしか掴めええってことを。


 怠け者じゃ駄目なのだ。

 ずるシャモじゃ駄目なのだ。

 解説家じゃ駄目なのだ。

 はた目にゃどんな糞仕事でも、寝食忘れてやった奴じゃなきゃ駄目なのだ。


 収奪される者の怒り。こいつは絶対分からねえ。

 括弧の「自分」で満足の、組織に乗っかる奴にゃ。

 欲得レベルで割り切れる、そんな奴にゃ

 人間は、人間の全知全霊は、そんな御都合主義にゃ出来ちゃいねえ。


 打ち込んだ奴なら嫌でも分かる。回りの「空気」や「欲得」に逆らってでも、地動説言うしかなかったコペルニクスの気持ちが。


 労働の正義って奴はこういうもんだ。労働が生む真理って奴はこういうもんだ。

 新たな理論も芸術も、ネジ一本の精密も、こういう中から生まれる。


 こいつを実感できねえうちは、何言っても僻みだ。嫉妬だ。物取りだ。

 資本家共に勝てるわきゃねえ。

 暮らしの意味も、分かるわきゃねえ。

 いってえ何を残すってんだ。何をいってえ伝えるってんだ。


 マルクスは十把一絡げにしちまった。

 労働を、労働者を。経済理論に突っ走る中で。


 労働はトータルな人間性の開示。

 疎外への感性も怒りも、収奪者への真の憎悪もそっから生まれる。

 この労働を、全的世界と結ぶ労働を、この感性を無くしちまったんじゃ、真の怒りも変革も生まれるわきゃねえ。


 作ってみることだ。

 予感で終わらせずに。

 体当たりで。寝食忘れて。糞共の醸す「空気」「損得」に逆らってでも。

 そうすりゃ嫌でも分かるだろう。

 疎外の本当の意味が。本物の、ほんまもんの怒りが。エセの他人、エセの自分への憎悪が。変革望む真の気持ちが。