そんなもん、別にいつだって一緒だろってのが結論だ。


 それでも俺にゃ、一つ感じるものがある。

 「知性」がいつの間にやら後ろめたさ捨て、恥じらい捨て、大手振ってのさばり出した時期だ。

 こいつは確かにあった。俺が生きて来た時代の中に。



 知性ってのは、生身の娑婆から遊離したもの。実体の投影、実体の影。

 こいつは昔ゃ馬鹿でも分かった。娑婆にゃ生身がわんさといて、知性は嫌でも二次加工された自分、何かによって持ち上げられてるから持ってるだけの自分っての感じてた。


 経営学のセンセイにゃ会社経営できねえ。こんなのは分かり易い喩えだ。


 町工場の親父が俺に言った。「大学出ってのは、設計図面の内径・外径同じに書く」。親父一流の喩えだえろう。それじゃピストン入るわけねえよ。あそびがねえからと。


 百姓だって、薪割りだって同じ。体で覚えるコツってもんが、何にでもある。


 理論はこの種のもの抽象したもの、昇華したもの。


 理論はどんなに高度化しても、どんなに先まで突き進んでも、生身の現実・感性の補佐に過ぎねえ。ヒントに過ぎねえ。実体なんてもんじゃ決してねえ。こいつは自然科学も社会科学も、「必要悪」の虚構生み出す社会・娑婆も問わねえ。


 こんなイロハ忘れ果て、そいつ支える虚構に乗って、「知性」がのさばり出した時代。こいつは確かにあった。俺の経験の中で。


 組織おん出て田舎へ舞い戻り2、3年頃か。82〜3年頃だろう。


 俺は実家でテレビ見てた。何かの用事か手伝いで嫁さん、子供連れて来てた。

 そいつは当時、視聴率上げてた歌番組だった。東京の赤坂局が流してた。司会はプチブルおばさんに人気の黒柳某と、黒柳が「この人は新庶民」とのたもうた久米某だった。黒柳は、薄荷のように淡いハンタイセイ的叙情の『トットちゃん』売れた頃だった。


 番組の中、歌手の紹介コーナーがあった。歌手は何やら大学出の中村マサトシだった。


 「中村さんの大学時代の友人です」。声に合わせて飛び出たビデオには、4人ぐらいの男が映ってた。場所は確か、田園調布っぽい雰囲気の住宅街だった。中村の大学のイメージにゃ、似合いの場所なんだろう。そこらまではどうって話じゃなかった。


 4人だかが肩組んでアップになった画面見て、俺はビビッた。スーパーされたそれぞれの名前の下に「○○株式会社勤務」「○○航空(だったかな)勤務」と、でんと書かれてた。どれも一部上場の「有名」企業だった。


 中村にゃ知らねえ出来事だったかどうか。俺が歌手ならお友なら、即座に断ったろう。「恥知らずにも程があるぜ」。


 その昔、見栄体裁の俺の親父が、賀状に連ねた娘の名の下に書いた。「○○大学卒」。姉は怒って賀状ふんだくり、どっかに隠した。こいつが真っ当な恥じらい、怒りって奴だ。当たりめえだろ。


 当たりめえが当たりめえじゃなくなった時代。それがこの頃だった。「事実書いて何悪いの?」。宣伝になると思ったんだろ。


 組織おん出て1年近い頃。何度も引越しどっかへ行っちまったノートの端に、書いた記憶がある。「時代が俺と轟音立てて擦れ違ってった」。


 それがこいつだったと今も思う。


 赤坂直列田舎放送の「団塊」が、ウォークマン聴きながら俺に「一年ウン百万収入違えば、一生じゃ偉え違いだな」と平然と嫌味こいたのも、この頃だった。そう、偉え違いだったぜ。


 黒柳が番組中言った「新庶民」。こいつは三島の「薄荷のように淡い反体制的感情の時代」ってぐらい、俺の記憶に残る。


 吉本流にゃ「上昇しちまった庶民」「高度化した社会」。おっさんが言ったのもこの頃だろう。


 俺は今、改めて思う。後ろめたさは、恥じらいは間違っちゃいねえ。知性って奴に嫌でも染まっちまった奴の宿命だ、こいつは。「高度化」もへったくれもねえ。ボケるんじゃねえよ、吉本。


 こいつは人間の否応ねえ基本だ。生身がどんなに少数派になろうが関係ねえ。根元にはびこる菌糸の腐界。こいつ忘れたキノコ。こいつが「高度化」した「新庶民」だ。枯れるぜ。間違いなく。


 戦後の学生運動なるものの唯一の取り得は、後ろめたさだった。置き去りにしたものへの。その回復の運動。回復の衝動。こいつ忘れた括弧付き「知性」。こいつは腐界が生み出すエサ食うだけの白ブタに過ぎねえ。どんなにブタが多数派になって、もっともらしい面下げても。「ブタ小屋の回り世界が回る」。この勘違い野郎、勘違い女がどれだけ増殖してもだ。

 腐れ脳ミソの「共同幻想」「上昇」志向がどんなにヒトにへばり付いても、太陽の回り地球が回る事実外しちゃ、真っ当な娑婆は成り立たねえぜ。