ヒトが腐った―というより腐れ切ったと言った方がいいんだろな。それについて思い当たることがまたある。


 国営放送にSという女性アナがいる。


 雪国の出とかの、柔らかい感じのアナウンサーだった。うちの嫁さんなんかに通じる感じだった(感じだけだけどね)。


 この手の仕事のパー姉ちゃん(パー姉ちゃんしかいねえのは、現場含めこれでもかってほど見てきた)特有のキンキンの押し出しじゃねえ、ふんわりした感じだった。民衆にゃ普通のタイプだけどね。


 ある時、このアナが田舎新聞に寄稿した。共同経由かどうか知らねえが。


 そこには次のようなことが書いてあった。


 以前私は母に、「お前、自分を何様と思っちゃいけないよ」と散々言われた。でも今母は、「もうそんなことは言わない」と言うようになりました。



 記憶で書いたが、こんな話だった。時の流れの中、自分の「間違い」認めた母。読んだ俺の気持ちは、アレアレとかオヤオヤとか、そんな感じだった。以来結構、講演なんかに飛び回り始めたんじゃねえかな。講演がいい金になり出してた頃だから、バブルの最盛期か末期の頃だったんじゃねえかな。


 それから間もなく、S姉ちゃん(もうおばさんだったけどね)はヘマやらかした。


 それは、今はもう話にも上らねえ「常温核融合」扱った番組だった。


 俺は科学ものは好きなので、途中からだったが見た。それは、S姉ちゃんが構成まで関与したとかの番組だった。登場する姉ちゃんからは、先頭に立って作ったって意気込みがプンとにおった。


 番組は見事に失敗だった。肝心かなめの最後の対談。「未来のエネルギー、常温核融合」への期待に気負う姉ちゃんが何度水を向けても、相手の東大(だったかな)の先生は乗って来なかった。そして最後にのたもうた。「あり得ないことをあり得ないと証明するのは、限りなく難しいんです」。ラストシーンは、きっぱり言った先生と、うなだれるS姉ちゃんだった。


 こんな無様な番組がなぜ出来たかは、何となく分かる。やらせとけや。回りは突き放したんだろ。挙句に打ち合わせも不十分のまま番組作りは進み、リップサービスすらない愚直な先生の回答になったんだろ。枠とっちまったんで、お蔵入りもできなかったんだろ。


 姉ちゃんは多分、浮き上がっちまった。国営のスタッフの中で。一人舞い上がり、周りは冷ややか。よくある構図さ。


 この手の現象にゃ、ひがみ嫉妬が絡むから、周りもロクなもんじゃねえだろ。だがそれを誘引したのは、姉ちゃんの責任だ。ある時期から、周りにとっちゃ鼻持ちならなくなったアナ。上昇しちまった姉ちゃん。



 俺は舞い上がり姉ちゃんよりも、自分の「不見識」を娘に認めちまったお袋さんの方に、腐れ切った時代を見た思いがした。


 お袋さんは俺の嫁さんのお袋同様、雪国の田舎もんだったんだろ。町場の住人だったかも知れねえが、そうは変らなかったはずだ。


 自分を何様と思っちゃいけないよ。これは庶民・民衆の真っ当な感覚だ。肉体備えた民衆の。


 民衆ってのは、トータルにヒトを感じる力を持つ。だから「部分」でしかねえものを、断片でしかねえものを誇る人間を嗅ぎ分け、嫌悪する感覚を自然に身に付ける。(上っ面アタマ下げてもだよ)。仕組みの中で「上昇」したに過ぎねえものへの嫌悪。それが、何様と思っちゃいけねえよ。


 お袋さんまで勘違いさせちまった、時代の砂漠。暮らしが干からびちまった社会ってことさ。無意識の大海なくした社会ってことさ。断片に過ぎねえアタマに頼る、頭でっかちの社会ってことさ。人工の近代、人工の明治。その集大成の時代ってことさ。


 この手のてめえ焼き尽くす。そうすりゃ再生もありさ。時代と社会がどんなにとん馬な方角に向かってても、やって損じゃねえ話さ。生きてる実感欲しけりゃね。