俺がはっきり決めたこと。

 「知性」とのなれ合いは、100%止める。

 このクニの批判者にゃ、「知性」しか居ねえってのは、60年近い人生で嫌ってほど出くわしてきた。


 誤魔化されちゃいけねえってのは、このこと。

 批判者は、「知性」なる丘の上の批判者であり続ける限り、最も役立たずの「体制」の犬に過ぎねえ。


 理屈は簡単。体制にぐうたらしながらぶら下がり、体制を批判する。それが怠け者の、頭でっかちの、体制が与えたお墨付き(括弧付き知性)への自負だけは人一倍の、真の意味で無能者達の居場所だからだ。


 昔、吉本隆明は言った。「もっと深く絶望せよ」。それはこの種の者達への期待を棄て、自分自身に、人民に、日々自分の体と体感で生きる民衆に立ち返れという意味だった。


 この歳になればよく分かる。観念じゃねえ、俺自身の経験から手に取るように分かる。若き吉本は、都会の基層にいまだ居た職人・民衆からこの感性を、ヒトへの予感を受け継いだのだ。吉本の内部において、思想化が未完に終わったとしても。


 娑婆に出て、飯食いながら思いなよ。働きながら感じなよ。

 このことを実践した「知性」は、俺の知る限り皆無。


 考えて見るがいい。思想って一体何だ? 生きてく中で身に付くもんだろ。自分に対し真っ当に、愛する家族に対し真っ当に、必死こいて生きようとすりゃ、嫌も応も無くわが身の内に形成するもの。それが思想だ。思想の核だ。


 こいつを言葉に表すのは大変だ。だから日々働く者にゃ、行動者にゃ、そんな暇はねえ。暇がねえのだ。「知性」のバカ達が勘違いする「頭がねえ」からじゃ、間違ってもねえ。上昇した「知性」にゃ、この辺の事情は絶対つかめねえ。分かったつもりでもつかめねえ。上昇しちまうからだ。自分の居場所(民衆性)を置き去りにして。こいつを少しでも感じる奴は、民衆に向かい説教する愚劣さに赤面し、七転八倒するだろう。


 「知性」「思想」は、どこぞの他人がもだえた末にひり出した糞としてのそれは、ヒントだ。どこまで行ってもヒントだ。言葉としての伝達の便宜上不可欠だとしても、参考文献以上にゃなり得ねえ。
 主体は自分だからだ。その場に生きる自分だからだ。その場で飯食う自分だからだ。暮らし抱えて生きる自分だからだ。思想も信仰も、仰ぎ見るものじゃ絶対ねえってのはこのことだ。主体は自分でしかあり得ねえからだ。こいつは地上のどこだって、いや宇宙のどこだって絶対変らねえ真理の始点だ。


 卑近な、遠慮ねえ話でこの項をやめる。俺の子は、ガキの頃は遊び呆け、塾にも行かず(行けず)中高を過ごした末、イナカ者にゃ、まして貧乏人にゃもう無理って言われた「偏差値ピラミッドのそのまた天辺」に、自力で入った。参考書だけ頼りに。自分信じる。自分の感じたもの信じる。こいつだけ頼りに。まるで普通のガキがだ。当たり前なのだ。数十年前までは。


 こいつは職人になるだろう。親父なんざ、とうに越えた職人になるだろう。「頭の良さ」じゃない、自分信じる力に拠って。


 子と言ったって俺とは別の存在だから、予感の域は出ねえ。だが腐っても説教する「知性」にゃならねえ。こいつだけは信じてる。自分の存在信じる限り、上昇なんざあり得ねえ。こいつは信心の、信じる力の基本だ。


 こいつは下の子の力だ。俺が反省するのは、上の子に、この種の心が醸成する土壌を作ってやれなかったことだ。親の人生の矛盾ゆえに。