俺が学生だった頃、『あしたのジョー』という漫画が流行ってた。


 当時俺は、この漫画の面白さは原作だけじゃない、ちばてつやという漫画家が描き出す画の力だと、勝手に思い込んでいた。思い込みは当たってたんだろうと今思う。


 ちばてつやの漫画の面白さは、「愛情は力」を筋立てだけじゃない、画そのものに託して表現できる所だった。


 ちばがそれほど名が売れない頃描いてた少女漫画を見れば、それはよく分かる。ちばは、総ての人間に備わる奇跡の力を信じてた。ちばはそれを、愚鈍な者に秘められた爆発的パワーとして表した。


 題名は忘れたが、ちばは「秀麿君」というどうしようもない愚者をストーリーに登場させ、コケの一念花開く物語を展開した。荒唐無稽なストーリーだったが、そこには奇跡を念じ、人に内在する力を信じ、そこに活路を見出そうと願うちばの思い、人への愛情が込められていた。荒唐無稽にリアリティを与えたのは、何かの実体験に根ざしたちばのスピリットと、それが生み出す画力だったと感じている。


 そうしたちばの思いが表れたのは、一点突破で道を切り拓いたジョーにすがって泣く、おっちゃんの姿だったと思う。「生きててよかった…」。叫ぶおっちゃんはその瞬間だけ、夢ばかり追っかけてきた愚物俗物のおっちゃんを越えていた。ちばが描き出したのは、見捨てず人の可能性を信じ続けた者の姿だった。そうしたちばの画力は、直観力はあるものの蒙昧俗物・道学者の域を出なかった九州人作者の、ストーリーの質そのものを転換する力になっていたと感じてる。


 『あしたのジョー』を面白くした一つの要素は、ドヤ街と住人達だ。最底辺のドヤ街からはい上がるジョー。この筋立ては原作者のものかも知れないが、原作者が画を描いたなら、住人達はただの虫けらに過ぎなかったろうと思っている。虫けらの中からはい上がるジョー。そいつはただの道学趣味、立身出世の物語に過ぎなくなる。
 
 ちばはジョーを上昇させなかった。ドヤ街という一つの世界に根ざした男の可能性の、力の発露。ちばが言いたかったのは、「どこにも愛情はあり、人はいる。やりゃ出来るさ」。この一言だったと思ってる。「やりゃ出来る」。それは根本的に上昇とは無縁の、人それぞれの可能性の発露なのだ。それを引き出すのは、上っ面の観念で人を切り裂かない、見捨てることの無い愛情なのだと思っている。


 俺はクリスチャンじゃねえ。だが「コリント人への手紙」だったか、あすこで言ってる愛ってのは、嘘じゃねえと思ってる。こいつが無きゃ人は糞だ。ほんまもんの力なんざ引き出せるわけはねえ。総ては上昇に、上昇の仕組みになるに決まってる。


 こいつは俺が自分に賭け、子に託したものだ。俗物に過ぎねえおっちゃん同様、気持ちを突き詰めて言えばの話だが

 「お前は所詮おっちゃんだ。ジョーにはなれねえクズだ」。そう言って俺を笑った奴が昔いた。そいつが今、上昇の仕組みの中で高いびきなのは知ってる。


 最低限の開拓者にもなれず、糞の田舎で生涯くすぶり続ける男。それがおっちゃん以外の何者でもねえのは、紛れもねえ事実だ。だが俺は「生きてて良かった」を味わうことはできた。ジョーの中に登場するドヤ街の子とたまたま同名の、嫁さんによって。無の中から生じた二人の子達によって。せめておっちゃんであり続ける中で。


 子達は俺の先を行くだろう。愛情においても、力においても。上っ面の上昇とは無縁の地点に立って。俺は死ぬまで見届ける。そのためにゃコケの一念でかまわねえ。死ぬまで本気で生きるつもりだ。


(追伸)
 俺が自分の居場所を糞の田舎というのは、自分を信じようとしねえからだ。仕組みが精神が。俺が信じるのは、体のいい観念以前の自分を信じる者達だけだ。