「俺達は三流大学出だから、エリートじゃない」という理屈はよく耳にする。

 田舎に住みゃ、「下層」の仕事してりゃ、「二流、三流」しか出くわさねえから、この手の言い訳・正当化のたぐいにゃ、よく出くわす。


 主観的にも客観的にも、こいつがとんだ嘘っぱちなのは分かりやすい話だ。


 エリートかどうかってのは構造―トクに思考の構造の問題であって、偏差値の問題じゃねえからだ。


 この手の者達―とりわけこの種のこと敢えて口にする者達は、例外無くひでえ差別屋共ってのは、永年の実感だ。気になるから言うだけなのだ。


 聞きもしねえのに、かってにこっち定義付けて来るのは、大抵この種の者達だった。見上げ見下し、俺達は違うぜって態度ひけらかすのも、大抵この種の者達だった。大学大衆化時代や、そいつ尾引く時代に出た者達にゃ、とりわけこの手は多い。


大衆そのものになり切れねえのは、実はこの種の「成らず者」なのだ。酸っぱいブドウ、死ぬまで見上げる輩。垂れ流す害毒の自覚さえねえ「俺達ゃ庶民、労働者」。


夢中で生きた経験ありゃ、そんなこと言わねえさ。学業だって然りだ。孤独の中で打ち込んだ記憶ありゃ。


上っ面の立場になぞらえ、その都度自分言う者達。たまたま「運良く」弱者被害者になって「正義」つかむのと、何も変わらねえさ。