経験が大事。こうなると、いつも爺いばかりのさばる―というのは大いなる誤解だ。


 経験で大事なのは、経験する主体。自分なのだ。


 経験の受容器としての自分。主体の自分。自分とは何か。


 こいつはっきり感じるのが、一番大事なのだ。こいつが経験論の核心だと俺は思う。


 いくら「経験」積んでも、人として未熟な爺い婆あはいくらも。思い込みや何かの上にあぐらかき、自分の部分で何にも受容できなきゃ、ヒトとして未熟児のまま棺桶に足突っ込む。


 自分はいってえ何なのだ。こいつ真っ当に感じれば、あぐらかいて説教垂れる馬鹿はしねえさ。てめえで感じるのが大事。ここに当然行き着く。


 経験(他人にゃ観念)はヒント、参考以上じゃあり得ねえと、嫌でも分かるだろう。助言ってやつが、どれほど難しいかも分かるだろう。下手な助言は人を壊す。壊されたし、壊した。俺も。愚か者の堂々巡り。


 見上げる馬鹿馬鹿しさも、見下げる馬鹿馬鹿しさも、当然分かるさ。