「保護」の本質 (初出、10/09/2006 やめちまったサイトより)[クソ食らえ反動]


 朝から地域の火災訓練。輪番の役員なので渋々出た。「そういうものは大事だから」の家族の声に、少しは前向きにと思いつつ。



 だが、やっぱりだった。住民参加の訓練はほんのわずか。あとは退屈なビデオと通り一遍の説明。腹が立ったのは、実の部分は急かせておいて、くだらない挨拶を7〜8人。一人3分でも20数分。1時間半のスケジュールの間にだ。地回り県議まで登場し、お手盛り新知事持ち上げるトンデモ話も飛び出す始末。もっと住民にやらせろという、こちらの声をうかつに聞いた担当者は、今頃文句言われてるだろう。身勝手なスケジュール狂わせたかどで。



 こういう時は斜に構えずに、関わってみることだ。そうすれば肌身で感じる。この種の“訓練”が、一体誰のために仕組まれているか。体面、建前、住民管理のため。恩を売るため。とっさの場合に肝心の、主体性ははねつけて。「国民保護」法なるものの本質も、それだろう。



 羊のごとく従う者達に言っても仕方ない。関わった範囲で主体的にやるだけ。一番腹が立つのは、知った顔で批判だけして関わらない者達だ。



 何もしないわが身を省みることなく、後になって「それ見たことか」。そうしてしゃしゃり出た者達が、あの「戦後」にどれだけ泥を塗ったか。停滞の共犯者か。



 この手の社会が続けば、行き着く先は手に取るように分かる。それでも関わるしかない。ここに生きる間は。