穴掘りの思い出 (初出 10/15/2006、やめちまったサイトより)[田舎の歴史を穿ってみたら]


 田舎の歴史をほじくり返して、気付いたこと、その一。



 中国侵略や太平洋戦争での他国民衆、他国軍人の死者数が、どこを探しても見つからないこと。高校レベルの資料を何点かあたったけど。



 これには困った。田舎の団体の通史の場合も、時代の概観程度は書かなきゃならんのだが。結局“多大なご迷惑を”のたぐいの、抽象的な記述になってしまった。



 自己認識の基礎資料もないってことだね。我々ニッポン人には。「大東亜戦争肯定」云々以前の問題だと思うが―。



 



 その二。ナショナリズムが民衆レベルまで浸透して燃え盛った、日露戦争期。



 その頃の中学教育は、まるでオウムかアフガンのタリバンかというウルトラ振り。その頃できた中学の敷地図は、まるで神社の見取り図だ。正門からの、参道ならぬ通路と廊下を真っすぐ進むと、突き当たりには本殿仕立ての講堂が。その最奥には、宝物殿の御真影奉安殿。それを背にして校長が、日々説教垂れたとか。



 年表のたぐいも、ぼ〜っと眺めると面白いことが浮かぶ。「国家の中堅育成」を掲げた当時の中学教育の、その洗礼を受けた者達が組織の管理・中枢になる頃に、満州事変から太平洋戦争へと続く歴史の流れが形成された。年数測ればすぐ分かる。あとあと尾を引く、閉鎖空間の詰め込み・精神教育。つい先頃、「この国担う人材育成」とやらの全寮制、中高一貫私学を作った金持ち企業があったけど、この手が下敷きじゃなきゃいいけどね。「意気に感じる民間」は、いつの時代も往々くせ者。



 人間そこまで馬鹿じゃないのは、この時代もタリバン校長に反発して、生徒の反乱が起きていること。この手の歴史はひた隠しになるが、当時の手記、年史、回想記などをつなぎ合わせれば、原因も含めておおよそが浮かぶ。こういう所が歴史の穴掘りの面白さ。この手の道草をくり返して、ついに首になったが。それで飯食ってる歴史家のセンセイ、これを何でやらないのかな。



 紋切り型のお仕着せ教育と、一握りの「できる者」へのえこひいきなどが原因だったようだね。陰ではどうやら悪評ふんぷんのタリバン校長に丁重にお引き取り願った後は、大正デモクラシーへの道をひらいたリベラルな人物を召請。あの初代にはペコペコの教職員まで、諸手を挙げて歓迎の手記を書いてるのには、笑ってしまった。



 かのタリバン校長。後に顕彰を受けるためだろう。もっともらしい校誌を書き残している。二代目はそのパロディを作ったぐらいだから、当時の人達はよく分かっていた。だが今になれば人はまた、上っ面体裁に飾られた文書のほうを口あけて鵜呑みに。後世だますにゃ恰好の手口。この手の文書・書物は、要注意なのだ。



 民権―国権―ウルトラ国権―デモクラシー―国権―ウルトラ国権。この流れの果てに「戦前」は解体した。片田舎の学校、地域の人間模様も織り交ぜながら。



 上から仕切ろうとする国家と、思惑・欲望等々内に抱え民間が立てるさざ波。その和音・不協和音の中で、歴史は仕組まれていく。ムコの民、われわれ被害者・庶民なんて生やさしいもんじゃないぜ。反省込めて。