肉離れと宗教改革 

  [思想・哲学・宗教(自分とは)][共和制]


 何とかいうマラソン選手が練習し過ぎ。肉離れで肝心かなめの本番欠場。


 笑っちゃうけど笑ってられねえのは、こいつはコクミン病だからだ。平均的。どこにも転がってる。ふつーの日本人が必ず罹る―。


 何でずっこけるまで練習しちゃうんか? 俺はこの手の運動選手じゃねえが、よく分かる。不安吹き飛ばしてえんだ。


 不安はどっから? はっきりしてるのは、自分の体ん中じゃねえ、訳のわかんねえもやもやから来る。ここが問題なのだ。だから対応できねえのだ。動物の勘のたぐいで避けられる程度のことも。


 湧き上がるもんでやってても、いつの間にやら人はご親切に取り囲まれる。選んであげたよ。がんばって。君が代聴きたいな…。「みんな」の側の無責任。有無言わせねえ無責任。


 昔、北陸の陰湿野郎は、仕事に打ち込む俺に言った。「お前は、会社に選ばれたんだからな…」。並の天丼、ニッポン人と俺を見抜いての話さ。ずっこけ期待のご親切。よくいるべ? 組織にゃ。


 並のニッポン人だから葛藤出るさ。自己否定・自己変革の本質はここ。頭じゃ分かっててもね。「みんな」とやら吹き飛ばすってのは、実践の問題。アタマの問題じゃねえからだ。


 プレッシャーってのは誰にもある。どこまで行ってもあるだろう。だがはっきり言えるのは、「おめえはおめえの良心に賭けろ」。そうささやきかける神持つのと、「有無言わせねえ。ひれ伏せ」。この手の神持つんじゃ、えら違いってこと。この手の神は、ほんとにゃ人のこと思わねえ。絶対思わねえ。だからやって来る。にこにこ顔、慈悲のご親切で。自分絶対上に置いて。


 6年前。旧制中の学校史作りの時。「今の時代、修身勅語は必要だ」。こう言う予科練帰りの寺の坊主がいた。俺は時間ねえのは承知の助。修身勅語の根拠、史実に照らして長々と書いた。有無言わせねえ命令への怒りと、怠惰放恣の今の世への怒り。葛藤矛盾併せ持つ坊主は、読み終えて言った。吐き捨てるように。「君、君ならずとも臣、臣たれ。都合いい言葉だ」。


 坊主とはその後、制作期間と金の話で喧嘩別れ。だがなぜか、杓子定規キンゲン実直の糞坊主恨む気にゃならねえ。あんたも同じもん抱えて、生きて来たんさ。


 宗教改革必要ってのは、このことだ。共和制ってのは、このことだ。ニンゲン強けりゃ制度なんか関係ねえ。一見ごもっともの、こんな嘘っぱちにたぶらかされちゃいけねえぜ。人間そんなにゃ強かねえ。なぜなら、「みんな」押し付けて来る奴等は、あの坊主のようにサシの勝負じゃねえからだ。損得利害・兵糧攻めの陰湿で、ねちねちやって来るからだ。暮らし抱えりゃ、勝てるわきゃねえのだ。


 休む時ゃ休む。いっ時流行りの自己責任で。上っ面の精神主義じゃねえ、理念・仕組み・システムに「自己」ってやつが映し出されりゃ、もちっとマシな契機も出るだろ。人の心に。過労死なんて糞死にも、ちっとは減るだろ。


 変革は必要だ。宗教改革は必要だ。「みんな」騙る利権既得権、人心無視の決定権、ぶち壊すのは必要だ。共和制万歳。