余剰作る奴

[日々雑感][共和制]


 人尊敬しねえ俺だが、敬するに価する人々ってのは、やっぱりいる。

 人生の余剰、自分で作る人々だ。


 共通するのは、とにかくよく働く。よく働くだけじゃなく、身に付いた知恵とやり方、持ち合わせる。苦労って感覚が薄い。手練手管もあるが、基本は自分の汗の世界。コケの一念ってぐらいの没頭に、足場置く。性格はさばさば。案外人情家で、物惜しみしねえ。この辺が、おおむね共通項。


 こういう人々は案外、どこにもいた。農民にもいた。土建屋にもいた。町工場の親父にもいた。営業屋にもいた。その昔は、教師にもいたらしい。らしいってのは、直接会ってねえから。後は皆、直接会ったり付き合ったりの印象。


 女にも稀にゃいるってのは、嫁さんの友達の奥さんで知った。東京生まれの横浜育ちとか。パート仕事でも、動いちゃった方が得だよと、様子見の群れ尻目に働く。女にゃ珍しく自分の知恵、人に分ける(男でも珍しいね今時)。転勤族の奥さんで、ずい分前に東京に戻っちゃったが。


 読んだこたねえが、『見る前に跳べ』なんて小説だかエッセイだか、昔あった。書いた当人は見てばかりで、跳べなかったと思うけど。体先に動かして、感じて物事吸収する。こいつが身になる知恵知識ってのは、拙い俺の経験でも分かる。


 気ぃ付けなきゃいけねえのは、人に言われて見る前に跳んだら、きっと怪我するぜ。自分の体感って奴でやらねえとね。主体性の軸ってのも、こいつさ。


組織の中じゃ、この手のやり方・生き方ってのは、きっと壁にぶつかる。こいつは経験でよく分かる。はっきり言えるのは、だから俺はやらねえよってのは馬鹿野郎だ。ぶつかったその時からが、ほんとの自分の人生だからだ。労働疎外、労働者の怒りなんて、ぐうたら労組のキャッチコピーになっちまってるが、この手の生き方の中じゃなきゃ、ほんとはつかめねえ感覚だ。自分が生んだ余剰が富が、収奪される感覚。自分の生き方・人生が、理不尽に邪魔され疎外される感覚。こいつは自分なりに、徹底的にやってみる中じゃなきゃ、つかめねえ。


 とにかくそこまで行ってみる。こいつは大事―ってより、金玉持つ男にゃ不可欠だ(女のことまで俺は知らねえ)。その先は、それぞれ自分でで決めりゃいいさ。自分の体感、自分の軸。こいつ外さねえで。小路、横道に走らねえで。ほんまもんの進歩も発明も、その先にあるんだぜ。どんなにちっぽけでも、日の目見なくても。自分の宝になるもんはね。