日本思想、東洋思想に欠けてるもん。それは上っ面の言葉や観念じゃねえ、情念肉体備えた言葉だ。思いだ。


 農耕文化ってばそれまでだが、彼方に天子・皇帝仰ぐ農民の政治的ニヒリズムって奴は、ロシア革命でも中国革命でも変わらなかった。民衆革命の素地宿した明治維新の結末が、まるでそいつと無縁になっちまったように。


 この国ではっきり言えるのは、「市民」もいまだ、黄門様有り難がる民百姓ってことさ。頭じゃねえ、感性肉体備えた実像の市民なんて、いやしねえんだからさ。


 思想上っ面で読むから、ヘンな評価になっちまうのだ。ありもしねえ居もしねえ、私達「市民」。働かねえ奴ほど声高に、俺達「労働者」。昔から変わらねえ通弊。


 インテリ面して、説教する側に立ちたがるんじゃねえってことさ。生きる中で暮らす中で、働く中で湧く自分。こいつに根ざすしかねえってことさ。マイク突き出されて、馬鹿面下げて斜に構え、解説なんかしてねえで。怒る時ゃ本気で怒れってことさ。周りなんか見てねえで。間抜けな記者が、帰ってから使おうが使うめえが。


 どんなに口先、民主説いたって、革命ぶったって、持ち上げたとこから、持ち上げられたとこからしゃべってりゃ、駄目さ。チンポジウムだの何だので、そんなもんに心重ねて聞いてちゃ駄目さ。馬鹿にされようが蹴飛ばされようが、体から湧く言葉で言えってことさ。


 どっかのブルジョワ革命だって、宗教改革だって、皆こっからだぜ。後付けで整理されたもん見て感心したって、何んにも始まらねえさ。