啓蒙思想と民主の戦後と画竜点睛―共和制―

           [共和制]


 民主の戦後。戦後憲法。改悪なった教育基本法


 これは明治維新福沢諭吉が持ち込んだ、暮らしが軸の功利主義、人の上に人を作らずの啓蒙思想みてえなもんだ。


 どこが一緒かって? 聴いて民衆、素直に納得ってとこさ。すっと入った。アタマに詰め込まれなくたって。敗戦前の国家主義=大衆教化の糞イデオロギーと違って。当たりめえのこと言ってんだからね。人民にゃ。


 「民衆は嫌で嫌で困ってた。内心。一億火の玉の糞戦争」。敗戦直接体験の雪国親父・安吾は敗戦直後に言った。こいつが本音さ。人民の。民主憲法。受け入れたのも本音さ。民衆の。


 この手の民主思想の“弱点”は、民衆がその気で背負わなきゃ続かねえってことだ。当たりめえの話だね。考えてみりゃ。


 三島由紀夫の『絹と明察』って小説だったか。赤旗振る労働組合に、ワンマンの工場経営者は言ったとか。「勝手に吠えるがええ。父としての俺の不在が、どれだけお前らに痛手か。そのうち分かる」。こんな意味のことを。


 今がこの状況だね。というか、この国の民衆はずっとこの状況だった。民主が何とか持ちこたえたのは、改憲しにくい硬性憲法に拠るところ大だった。


 小児病じゃ駄目って、口酸っぱくして言うのはこのことさ。不完全でいい。不徹底なとこあったっていい。思いを自省に、暮らしに生き方に反映。こいつがなきゃ、上っ面の目くらましに、毎度だまされる。そしてズルズルさ。権利放棄に、はいつくばる小国民に向かって。


 俺は、共和制じゃなきゃ駄目と思ってる。真の自立は。上っ面不完全でも基本は自立。この手の性根、沁み込んだ社会作るのは。制度変わって人変るってことはある。補助金お涙金、お上に陳情。権威・御用達。コネ・ツテ、上っ面の資格。この手にすがるのが恥と明確に示す象徴的仕組みは、画竜点睛欠き続けたこの国の民主にゃ、どうにも必要なのだ。


 守りに入った護憲の叫び。無駄とは言わねえ。だが守りだ。じりじり後退だ。戦後ずっとそうだった。画竜点睛。この国の民主は、戦後の解放は、実にこいつに欠けてた。誰もが腹じゃ分かってて、言わなかった。言い出せなかった。だからピリッとしねえのだ。一人ひとりの生き方から制度まで。他人事でしかねえのだ。何やっても。


 当たり前のこと当たり前に、素直に言やいいのだ。人の常識として言やいいのだ。人の自立。その存在根拠。制度仕組みとして樹立。地上の総ての人間との接点の芽持った、制度理念の樹立を。