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嫁さん、北方の田舎町に出かけた。息子の子とご対面に。
娘も途中わざわざ落ち合い、一緒に。
母は老いれば息子を頼る。そんなことないよ、と言うが。
娘も先日までなら、行かなかったかも。俺と息子がぷっつんなのを、どっか感じたんだろう。不安なのだ。人の絆。
女が人頼るのは構わねえと、俺は思う。男は、男親はそうなったら終いだ。子も腐る。
稼ぎ手に一族がぶら下がる図は、以前は結構見かけた。芸能人の家族にゃ、案外そういうのがいた気がする。十数年前、俺が一代記書いた医者一家もそうだった。近代性装う首都圏の、それも「上層」や「上層志向」の家族にゃ、案外この手の構図が今もはびこってるんじゃねえかと、俺は感じている。お受験のたぐいがはびこるのも、根深くそいつと関わってるんじゃねえかと感じる。案外復活してたんじゃねえかな。この国全体で。セレブだの何んだの、言いつくろって。不況で幻想、吹っ飛ぶだろけど。
この手の家は、男がだらしねえ。間違いなく。女と一緒だからだ。
時にゃ、自分無にして思う。そいつに賭けて行動する。男のこの特性を、失くしちまってるからだ。
食わねど高楊枝。こいつは、男に要求される生き方だ。家族に対する時の男に。
それは、暮らしのために必死で稼ぐのとイコール。自立の性根も知恵もねえ、雇われ武士の言い訳・見栄とは、まるで無縁の語と俺は思ってる。
食わねえのは、捨てるもんとはいってえ何なのか。分かりやすい話なのだ。話広げりゃ、公正ってのはこの上に成り立つ。少なくとも家族に対しちゃ維持できる。公正は。男がこの手の生き方・態度失くさなきゃ。
公正は善き統治者の専売特許? 笑わせるな。
女にゃ公正はねえ。どんな時も常に、生き延びるのが起点なのだ。自分が。生身の子のために。その余禄が妄執。
女の性(さが)。その暴走止めるのが男。力ずくじゃねえ、自分の生き方・本性に根ざして。家族は、男と女の本性の調和(実際は闘いさ。力ずくじゃねえところの)。それで成り立つと、俺は思ってる。
孔子のたぐいが駄目なのは、わが身の根性無しと馬鹿さ棚に上げ、女子供軽蔑するとこ。家族の調和のたぐいまで、統治の力・それ淵源のたわ言に委ねるとこ。
男は辛いさ。だがこいつ取り除いたら、一体何が残るんだい? 単純・空っぽな男の人生に。