俺は今まで、結構人のお陰って奴でやってきた。


 世間様のお陰? そんな話じゃねえさ。ある種のタイプの人物のお陰。


 意気に・気持ちに感じる奴。こういう奴は、節々でいた。


 それはこっちが窮地の時。なるようになれの体当たりの時。


 失対仕事で土建屋行った時は、一肌脱ぐ親父に救われた。失業野郎といじめにかかった職制のクズと、なめるんじゃねえと正面衝突の時。一文の得にもならねえ俺のために動き、金の算段してくれた。理は当然、俺にあったけどね。当然のこと、当然やらねえ奴が圧倒的な娑婆じゃ、やっぱり忘れられねえ。


 苦し紛れに飛び込んだ営業会社にもいた。こいつは算盤ずくってとこもあったけど、算盤抜きでもやったろう。コネ・ツテすがらず仕事取って来る、糞田舎にゃ稀な営業屋だった。


 同じく、苦し紛れで飛び込んだ活字情報製作会社にもいた。内部的にゃ契約破棄しろ、首切れって話だったろ。勝手な都合で。それやらねえで、どこでどうしたか契約の金算段し、俺への支払い全うした。これも当然過ぎるほど、理は俺にあったけどね。理を理としてやる奴は稀さ。何度も言うけど。


 人ってのは案外、こういうつながりで成り立つもんだってのが、人生の実感だ。得にならなきゃ理も糞もねえ、潮引くように遠ざかる足ねえお化け。この手の奴らの方が、男も女も圧倒的に多かったけどね。


 俺がこうして生きてるのも、嫁さん子供のお陰だけじゃねえ。こういう奴らのお陰ってのは、確かにある。「国家の中堅」育てるのが、明治以来の国家教育ってんなら、「人間の中堅」育てるのが、真っ当な娑婆、真っ当な人間の仕事だ。こいつは、育て育てられ。お互い様のギブ・アンド・テイク。気持ちで受け止め、理に従ってふんばる。この当たりめえ、当たりめえにやるのが、人間の娑婆支える人ってもんだと、俺は思ってる。