人間、まじめに打ち込んだこと無え奴は駄目だ。


 打ち込むと何がいいかって? 摂理が見えて来るのさ。どんなもんでも。対象の、自分自身の。


 この手の摂理が、手習い出来合いの方程式と違うのは、教えられてじゃねえ。自分自身の体が見つけるところだ。


 例えば歴史の資料あさり。人物伝作り。手に入るだけの資料を、手当たり次第集める。そいつを虚心にまんべんなく、詳細に読む。そこで心に浮かぶものを、心にメモに留め置く。


 それ繰り返すうち、点と点、孤島と孤島だったものが、気がかりの箇所が、流れでつながって来る。


 このプロセスは面白れえ。まるであぶり出しだ。最初はぼ〜っと。やがて鮮明に浮かんでくる。心の内に。


 像浮かばせる試薬。そいつは人の感性だ。一人ひとりに備わる所の。


 馬鹿は物事、カッコに当てはめる。仕事楽だから。無難手早に「言われたことやりました」。その方が金にゃなるさ。支払う方も、その程度の脳味噌当て込んで、賃金・手間賃組み立てる。


 教養・知識は必要だ。だが足すくわれるんなら、無え方がずっとマシだ。虚心ってのはミソさ。生身で娑婆で生きてみなきゃ、身に付かねえさ。籠の鳥じゃね。


 知識と自分の間合い。知識、馬鹿にゃしねえさ。だが自分が軸。思い込みできるだけ取り払った、感性の自分。そういう自分洗い出しつつ、歴史に人に向かい合う。知識にもね。

 自己否定は必須さ。真っ当な自分。こいつに立ち返る姿勢無くして、何の発見だい? 何の創造だい?


 上っ面、知的とやらの作業だけじゃねえさ。歌でも何でも一緒。町工場の部品作りだって。


 何で俺、貧乏こいたか分かるだろ? 分からねえ? 一生籠の鳥やってな。