「知的」社会の狂気  その一


 ある日突然「理不尽に」人殺す者は、「落ちこぼれ」に多い。


 以前下関だかでホームに車で突っ込み人はねた男は、九州の国立大出の「落ちこぼれ」。電気街で人刺したのは、中学まで「あなた優秀ね」の「落ちこぼれ」。池袋だかで人刺したのも、私立進学校出の「落ちこぼれ」。飛行機乗っ取ったのも同類。先日、元役人刺したとかの男も同類。


 こいつらの気持ちの中に空っ風吹いてたのは、よく分かる気がする。どいつも皆、条件付きで「愛された」者達なのだ。親から、周りから。


 落ちこぼれた途端、周りはすうっと遠ざかる。足無えお化けのように。評論する。高みの丘にあぐらかき。「親身」の親も、ほとんどが後者。


 がらんどうの空っ風。仏作って魂入れず。これが明治以来、営々築いたこの国の精神構造、家(イエ)と組織社会の風土だ。病気のルーツは、ニンゲンの押さえ込みの悪知恵長けた家康仕込み、権力維持の幕藩封建体制と、後付けの理屈で正当化した雇われ武士の道徳・学問、それ由来の精神構造だ。


 この種の精神構造が、都市・都会ほど色濃く残存してるってのは、俺の経験だ。そりゃそうだべ。田舎なんて、父ちゃん母ちゃん本音の労働で汗流しってのが普通。封建の田舎のイエなんて、ほんの一握りに過ぎなかった。


 一握りに過ぎねえ者達の子弟が地位特権で、金に任せた教育で都会に集まる。元々いる者達は、将軍様のお膝元自慢、御用達・おこぼれに与る者達。または維新の功労者・貧乏武士の成り上がり。明治国家が受け継ぎ流布したがらんどうの精神・道徳は、相似形のイエ育ちの「エリート」共の骨肉に染み込んだ。


 その手の精神道徳と、戦後は無縁? 馬鹿言っちゃいけねえよ。もろに口にゃ出さ(せ)ねえだけ。風土はそのまま残った。占領軍も意図して温存の官僚機構なんざ、歴然。懐古趣味の中高一貫学校作りの親方日の丸財界人なんざ、歴然。ニッポンは悪くなかったなんてぽろりぽろり本音の政治家・役人・勇ましがり屋なんざ、歴然。上っ面の精神主義聞きかじり、聞いた風なことぬかす二世三世集団なんざ、歴然。陰に陽に自負ちらつかす進学校の教師共、昔のままの上昇志向の仕組み・教育のケツ追っかける父ちゃん母ちゃんなんざ、歴然。


 馬鹿とがらんどうは、むしろ普遍化して拡大したってのが、戦後の実情だ。旧体制が流布の精神道徳との闘い。心の変革。こいつ伴なう革命のたぐいじゃなかったんだからね。魂の、主体性の欠如って話さ。(時間切れ。続く)