心重ねちゃ駄目だぜ

 寝ながら聴こうと、手当たり次第朗読テープ借りてくる嫁さんが、住井すゑの講演テープ借りてきた。


 聴いてて途中で寝ちまったが、面白れえ話してた。戦後憲法決定の話。


 敗戦後、改造社の何とかってのが、住井も呼んで新憲法の意見聞いたとか。政府諮問機関の提灯持ちかなんかだったんだろう。


 「奥むめをなんておばさんは『大変結構な内容です』。私ゃ言った。世襲天皇がでんと座って、何が民主憲法なの? そう言ってさっさと帰った。後日、その時見せられた通りのが、新憲法として発表された」


 人材払底の敗戦期、戦後「民主」で一定の役割を果したのは、たとえば元華族の「リベラル」達だろう。華族なんてのは、戦争期も心情は「リベラル」だったのが案外多いはずだ。


 戦争中、華族婦人の一人が米軍捕虜見て「お可哀想に」と言ったとかで大問題になった。後にでっち上げと分かったらしいが。当時の一部華族の心情とらえてたから、でっち上げもしたんだろう。


 昭和天皇なんか、心情は案外この手だったんだろう。


 敗戦後のGHQの橋渡し、戦後憲法の制作・公布の地ならしなんかにも、この手の旧華族係累達は関わったろう。西園寺何んとかなんてのもいたね。


 ほんわかあったかな、思いやり「民主」主義。民主党にゃ今も、友愛なんて口にする人物がいるが、この種の心情受け継いでるんだろう。


 明治の末だったか。労働者いてこますだけじゃ駄目と気付いたある大財閥が、友愛会なる労働運動の音頭とりしたことがあった。これなんかは、その後の「リベラル」華族民主党の鳩ぽっぽの心情のルーツだろう。労使「協調」労組のルーツ。


 俺はこういうほんわか・あったか、一概にケチ付ける気はねえ。家族・家庭のよさに通じるもんはあるからだ。というか、天皇も旧華族達の大半も、おおむねこの手のマイホーム主義者だったはずだ。今の皇太子なんかも、この手の心情だろう。弟夫婦は胡散臭いけどね。ホームじゃねえ、おイエにすり寄るってこと。


 戦後、この手のほんわか・あったかにほだされ(?)て、「民主」憲法下の改革に集まった者達は多い。戦前から、協同組合的労働者運動・農民運動で散々苦労した賀川豊彦なんかも、そうだった。


 賀川なんかは、「アタマはいい」が生活無視、労働者家族に還元されるべき協同組合の金を「男の大義」に平気で流用する、国家の裏返しの小児病左翼に散々苦労させられた口だ。


 俺が、アタマは“切れる”が気持ちは冷えびえのインテリ左翼・労働運動を一切信用しねえのは、この点だ。


 だが、ほんわか・あったかに「ほだされ」た戦後民主の限界は、はっきり見とかなきゃいけねえと思ってる。それは、この種の者達の精神構造の限界に絡むだからだ。


 一口に言や、彼らはいつも何かの上に自分を据え、そこからもの言ってた。賀川もそうだった。美濃部なる東京都知事もそうだった。鶴見俊輔とかいうベ平連とかのシンパ学者もそうだった。この手の者達は大抵晩年、家柄毛並み自慢始める。


 賀川の忍耐強さにゃ敬服するが、壇上の説教師の位置から、やはり出なかったと思ってる。


 政治的な「ほんわか・あったか」を俺が信用しねえのは、必ず居丈高になるからだ。相手がある一線越えて、正論言ったりするとね。例えば住井のばあさんのように。


 気持ちのほんわか・あったか、人情は大事さ。それ一方的に小馬鹿にし足蹴にしたまま、人生の入り口で眠りこけた左翼・新左翼共はクズだった。冷え切った批評家の性根抱え、金は天下の回りものなんて思うだにせず、手にする金は全部自分のものと信じて疑わず、年金だけはちゃっかり頂き、母ちゃんと一緒に貯金通帳抱え、クズのまま人生終わるだろう。


 ほんわか・あったかの心抱えつつ、自分の足元切り崩すのは、人生絶対必要だと思ってる。何んかの上に載っからねえ自分。載っからなくても、あったかさ失くさねえ自分。こいつの掘り起こしは、一生かけてもやらなきゃいけねえ作業だ。心のレベルだけじゃねえ。「お人好し」狡猾に利用する、この国の政治・社会の仕組みの変革と対で。俺が共和制に行き着いたのは、これさ。


 大抵誰も分かってたはずさ。六十年前に。住井のばあさんみたいにね。