王道行く
―なんて言うと、えれえ道学者臭せえ話になっちまうね。
でも、この手の話は直観のもんだ。感じ取ゃいい。自分軸に。
薩摩の西郷さんなんかも、人相手にするな、天相手にしろと言ってた。
これなんかも一緒。こねくり回さず、感じりゃいい。感じた気持ちで素直に翻訳すりゃいい。自分流にね。
人ってのはこの場合、部分にこだわる存在ってことだべ。観念、意識と言ってもいい。
天ってのはこの場合、トータルなもんってことだべ。無意識含む、自分の全体ってこと。俺流にはね。
王道行くってのは、こいつだべ。後者土台に生きろってこと。
別に、王様・天皇サマがやるって話じゃねえさ。普通の人民・庶民の道さ。ぐだぐだ思わず生きるところのね。
人間生きてりゃ、巾着切りみてえな奴にゃ嫌でも出くわす。自分だって巾着切りみてえなことやらにゃ、ゼニ取れねえことは多々ある。
たいがい現実は、部分部品で生きるしかねえってこと。仕事なんざ、たいがい―ってよりほとんど全部そんなもん。
それでも絶対必要なもん。そんな自分見つめる目。それが後者だ。トータルな自分。自分の全体感じる自分ってことさ。
こういう自分は絶対必要だ。人生横道に逸れねえために。全体騙る部分のクソに、商売、宗教、政治の詐欺にひっかからねえために。もの、新しく作り出すために。
俺が言う共和制の魂ってのは、これさ。いろいろ言いてえが、時間切れ。今朝はお終い。