吉本隆明の限界 この国の「知性」の限界 (その一)

 大衆(の原像)というトータルなものをイメージした吉本隆明は、封建期では漢学、明治以降では洋学の、外来ものに載っかったこの国の「知性」(餌もらってもの考えるサラリーマン学者)と一線を画してたのは確かだ。


 ていうか、当たり前なんだけどね。世界(人間)史的には。住んでいるその場から、地べたから思想が生え上がって来るのは。


 この国でも、この手の思想の萌芽はあったさ。あって当然さ。


 江戸、幕末期の寺子屋にゃ、その匂いがあった。俺の知る雪国の田舎でも。町民の学・心学なんてのにも、その匂いはあったろ。実存唱えた陽明学だって、この手の匂いの範ちゅうさ。


 吉本が、子供の頃通った塾の先生を懐かしがるのも、この手のものに通じるもんがあったからだろ。今のような、人生(人間にとっての宇宙)の匂いのねえお勉強マシンをはみ出たところのね。


(時間切れ 続く)


※小沢秘書逮捕の感想

 なめるなよ、ぼくちゃん政治家共。あうんの利権の官僚共